論理について③ | ЯαYの日記

ЯαYの日記

信なくば立たず

あけましておめでとうございますm(_ _)m

前回日記で論理を展開する場合には必ずその「枠」がある事を書きました。
第一回目では「論理的思考の大部分は姿勢の問題である」と書きましたが、正直その時点で全人類の半分以上が落ち、更に次の論理的思考の具体論で更に落ちますので、今回の枠についての話までついて来て頂けてる方は少数派という事になります。

前回日記ではAならばBのように外側の枠から内側の枠に繋ぐのを論理的だと書きました。
これは以下のように外から内に向かったものです。演繹法とも言います。
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この最後の枠(一番中の小さい部分、最後は本来点になる)、つまり結論というのはその人が欲しい局面によって色々分岐していきます。
ただし根本に通底する論法は同じということです。

因みに前回に書いたように、間違った枠どりでも論理的に結論には到達する場合があります。
しかし間違った枠取り故にどこかで論理矛盾になってしまう場合もあります。
正しければ必ず論理的ですが、間違ってる場合は両方なんです。
だからその「枠」の取り方が正しいかどうかは論理性だけで計れません。
ここは注意して下さい。

しかし内から外に向かうものもあります。以下のベン図をご覧ください。
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色々な要素をかき集めて、それに通底してる一般法則を導く作業です。
これを帰納法といいます。
ここで注意して欲しいのは、図にあるように枠に入れない要素もあるという事です。
「枠をとる」というのは、このように枠に入らない要素を排除する作業も含みます。
この何を枠に入れて何を枠に入れないかの「有意の枠」の設定は、その人の知性が最も問われる局面です。

ただしこの場合の論理的思考といった時に、演繹法とは全く違うので注意して下さい。
何か論理的思考といいますと、正しい結論が自動的に導出されるようなイメージを持つ方が多いです。
確かに演繹法の場合は取り敢えず枠を借定して論理に従えば結論には到達します。
しかし演繹法の場合は推論なので枠も仮説に過ぎません。当然結論もそのようなものになります。
このように演繹手続きにより、ある結論に到達する為の枠の設定作業も論理的思考です。
それは色々な事象を整理して考えるという事でもあります。
演繹法よりも、優れた帰納法による枠の設定の方が遥かに難しいです。
論理的思考にも技術レヴェルの違いがあります。

人が悩むというのは、色々な情報や心の中にも色々な事象が発生してよく解らなくなっている状態です。
この場合その様々な要素に於ける一般法則を見つけるなり、或いは悩む必要の無い事を除外したり(悩む対象の枠組みから外す)して、妥当な結論を出す為の土台の形成をしなければなりません。
教科書的に、論理的思考をすればいきなり天の声の如く結論が出て来ないのは言うまでもないでしょう。

ではこのような思考過程を経れば、枠が必ず設定出来るのかどうかなのですが。
我々の日常生活に於ける悩み事や、仕事や勉強に於ける方法論等は殆どの場合設定可能です。
だから年長者が年少者の悩み事の相談を聞いて、それに回答するという事があり得る訳です。
一般に年長者は年少者に比べて悩んだ経験が多く、そこから一般法則に到達してる場合があるからです。
そういったセオリーの精度や如何に多く引き出しを持ってるかも人を計るモノサシになります。
まだまだ人生経験が浅く、人を見る目に自信が無い方はこういう観点から見て下さい。
まず相手に何かを相談する気になるか。ここで器量が計れます。
そして相談してみて何か心に訴えるものがあるか。
「何か素晴らしい事を言ってるかもなんだけど自分には解らない」なんて考える必要はありません。
自分の感性を信じてみて下さい。結局ソレが一番正確に相手を計れます。

しかし学問となると必ずしもそうではありません。
まず以下の事を念頭に置いておいて下さい。

学問とは枠を創設する作業である

これは例えば「~理論」だとかの枠をとる事なのですが、それは無数の失敗の集積です。殆どが没です。
例えば日本人初のノーベル賞受賞の「湯川理論」も枠どりの典型です。
本来枠の創設というのは大変な困難を伴う作業なんですね。
だから個人の悩み事を解決するような枠の設定もかなりエネルギーが必要な場合が多いです。
なので人生上の悩みを自力でかつ合理的な形で解決してる人は多くはありません。
故に人生上の色々な問題に対する処方箋の理論化してる、例えば占い師の細木数子さん等が重宝されるのでしょう。
しかし自分の頭で考えて出した結論は、細木さんの結論と同じだとしても全然違うモノだとここに記しておきます。

なぜ学問的枠(理論的枠組み)の設定が困難なのかといいますと。
それは個人の悩み事や、仕事や勉強と違って学問の場合は範囲が非常に広いからです。
例えば物理学では、自然現象全てがその範囲でしょう。一般化しなくてはならない事象が云わば無限に近くあります。

しかし真の困難さは別の所にあります。

それは「優れた学説程論理的飛躍が著しい」事です。
つまり個々の事象を幾ら探ってもソコに到達するのはまず無理だろうといった閃きがあります。
例えばアインシュタインの相対性理論が偉大な学説なのは既知の事だと思います。
そしてアインシュタイン自身はそれに関して実験を一度もしてないんです。
だから自然現象を色々探っていって、個々の事象を研究して理論化に到達したものではありません。
相対論に基くブラックホールだとか、重力赤方偏移だとかはそれが確認されたからそれを一般化して相対論が生成された訳ではありません。全て後から確認されたものです。
相対論の場合は一応電磁方程式との整合性を強く意識して創成されましたが、極端に言えば(多分言わなくても)それ以外はアインシュタインの頭の中で作成されたと思います。
後から結果としてあらゆる論理性(つまり実験的検証)を満たすという事になります。
人生訓等と学問はこの点で全然違って経験による理論化ではなく、こういったどうやってヒネり出したか説明不能な直感力が必要になります。
つまり

優れた思考程直感的であり、広範な論理性を満たす

ということが言えます。
論理性の検証を一々行わない思考なのに、全ての論理性を満たすというような奇妙なことが起こります。
なぜ相対論が優れているのかは以下のベン図を見て頂ければ一目瞭然です。
学問がなぜ「枠の創設」なのかも良く解るでしょう。
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上図の通り量子力学と相対論の現代物理学は物理学の枠を広げた業績を高く評価されております。
それまでの古典物理学は現代物理学の特殊な場合に過ぎないという事になります。
しかし古典物理学から始まった物理学そのものの原理は量力でも相対論でも生きています。つまり論理性は完全に満たしている。
このようにある学問ジャンルの枠を広げる(適用範囲を広げる)というのは、学問ジャンルを創設するのの次、或いは同等の評価が得られる位大きな業績とされています。
そしてこの全体の枠を広げる思考プロセスは説明不能で、才能がなければまず無理だと言われています。
つまり「直感」に類するものです。或いは「勘」というべきものかもしれません。

しかし直感を説明するなら物理学という枠組みそのものを創設する事を考えた方が解り易いでしょうか。
物理学という学問は皆様ご存知かと思いますが、ニュートンという人が単独で創設した学問です。
自然法則をどのように記述しようと全く自由な状態で考えだしたのですが、それがなぜ運動方程式でなければいけないのか、或いはどのようにして運動方程式を導出したのかは多分本人にも説明出来ないと思います。
このように新しい学問、新しい枠組みの設定自体は「直感」に頼らざるを得ないんです。
そしてその枠組みから導かれる論理が、ここまで広範に自然界に適用出来て、更には現代物理学のようなそこから導出される奇妙な現象というのは、当のニュートンでも想像つかなったと思います。
つまり「直感」というのは単なる「当てずっぽう」とは違います。

直感というのは理由づけ不可能な正当性

という事が言えます。
本来これを満たさないモノは「直感」とは呼びません。
再度言いますが

優れた直感によって創設された枠組みは、必ず論理性を満たす

という法則が導かれます。
ここで大切なのは、論理性というのは「直感」によって先に到達されてるということです。
論理というのは後追い的な説明に過ぎない側面があります。

しかしこの「直感」に基く思考というのは、必ずしもごく一握りの天才しか出来ないかというと僕はそうでもないと考えています。
多分誰でもその能力は有してるけど、殆どの人は活用してないのではないかと。
例えば勉強をしていて幾ら考えても解らない内容があったとして諦めてフテ寝をしたとします。
そして一晩寝て起きてまた勉強始めたら、昨日あんなに考えても解らなかった内容がなぜか解っている。
このプロセスは良く解りません。寝てる間に内容を自動的に整理統合したとしか言いようがありません。
他に幾らイジっても中々マスター出来なかった業務用機器の操作が、諦めてほおっておいたけど半年後位にまたイジったらなぜか完全にマスター出来ていたという報告もあります。
こういった事象の報告は結構聞きますね。ただし根詰めて相当やり込まないと発動しないらしいです。
このような脳(かどうかは不明ですが)の自動処理機構と直感の発動機構は同様のものだと考えてます。

この「直感」についてもっと解り易い例があります。
それは「音楽」です。
音楽は言葉で考えては恐らく作らないでしょう。
一応音符という音楽言語がありますが、まさかメロディを無視して音符を何かの法則性に基いてふっていくという事はありますまい。
楽譜というのはあくまで作成した旋律の保存の為のものだと思います。
だから全ての作曲家は音楽理論の力を借りたとしても、かなり直感に頼って音楽を作成するというのは言えるのではないでしょうか。

音楽は音を適当に組合わせては出来ません。
作曲者は必ず単なる「音」を組合わせて形にします。
どうでしょう、コレも上記した学問と同じく「枠を創設する」という事になりませんか。
ここで

枠の創設は言語的活動に限らない
人間の全ての知的営為に関わっている

という事が言えると考えています。
そして音楽には必ず「規則性」が存在します。
そもそも規則性が存在しなければ音楽として他者に知覚されないでしょう。
つまり枠の創設と同様に音楽には「論理性」が存在すると考えて良いのではないでしょうか。
恐らく優れた音楽家程「音楽には論理性が存在する」という事に首是してくれる筈です。

論理性は言語的活動のみとは限らない

ここで重要なのは上で触れたように、最初の作曲時点でメロディを無視して楽譜に規則的に音符を書いていくという訳ではないことです。
無論全体の整合性をとる為に規則性を意識するのは当然ありますし、全て感性的に曲を創る人はそうは居ないでしょう。
しかしこの順序が重要ですが、先に直感ありきで後からの作成時や修正時に規則性を意識するということだと思います。
規則性を先に決めておいてしまうと、そもそも肝心の旋律を拘束してしまうではありませんか。

翻って考えてみますと、人間の思考に於いて、学問にしろ普段の思考にしろ言語的或いは論理的に考えるという事は寧ろ自分の思考を制限したり拘束してしまうような側面があるという事です。
ただし、ある局面に於いては自分の思考を拘束するのも有効な場合があるというのに過ぎません。
思考を制限すれば、その分結論に到達し易いからです。
しかしこういった手法に支配されてはいけないと思っています。
残念ながらそれが何なのかも理解せずに自分の思考を自ら制限し、自らを拘束してしまっている大人があまりに多いのが現状です。
子供はそういう子は少ないです。それは想像つくでしょう。

そしてテキトーではなくちゃんと「音楽」を作成しようとして、一応他人にも「音楽」として知覚されたとします。
しかしソレが相手の心を打つというのとは別です。
その音楽を聴いて涙を流させる等、恐らく「感動させよう」と意識して出来るという作曲家はいますまい。
それを聴く人々の心に訴えたいと思うのは多くの作曲家が思ってると思いますが(商売で音楽作るにしろ、その方が絶対売れる訳ですし)、実際泣く程感動する音楽というのはそんなにあるでしょうか。
その人の音楽に対する造詣にもよりますが、数ある曲の中でもほんの一握りかと思います。
つまり人に感動を与えられるかどうかはその作曲者の才能という事になりますがこれも直感的な力です(異論はないと思います)。
そして優れたものは多くの人々を感動させます。これは音楽に限った事ではないでしょう。例えばスポーツでも感動するようなプレーがあるのと同質です。

優れた直感は一般性を持つ

という事が言えるでしょう。
これは先に説明した学問も同じです。優れたもの程逆説的ですが「当り前」で広まっていきます。
ただしポピュラーだから優れているという論法にはなりません。
優れているからいずれポピュラーになる、という方向しか正しくないと思います。

多くの人々に感動を与えるという事は、逆に言えば人間にはそういった「共通項」が埋め込まれているという解釈になります。
最初から土壌の無い所には「感動」も何もありません。
優れた音楽をサルに聴かせて「感動」がありますかね?

ここでようやく「直感」と我々の「共通項」つまり世界観や知覚や価値観が結びついた訳です。
だから我々にお馴染みの

民主主義
→色んな政策を話し合いや多数決で決める。つまり多様な価値観を後追い的に統合する。

実定法
→立法機関による制定・裁判所の判例などによってつくり出される。云わば問題が生じたらその都度考えていく蓄積。そして近代国家は全て実定法を採用してると考えて良いです。

のような社会システムの基礎にあるものは、直感ではなく言葉と論理によって構成されているもので、本来の我々の知覚や認識とは異質なモノなんです。
社会システムの根本にあるということは、他の全ての諸制度や学問に至るまでこのような手法によって構成されているというのが主流です。
これを僕は言語的・明示的思考と呼んでおります。
これに対して直感を重視する思考を「非言語的思考」と呼んでいます。
以前にこれに関する日記を書いたのですが、考えてみれば普通の人に理解出来ない性質のものなのは当然です。
そもそも言語的思考を語る為には、その根本たる「論理」から立ち上げないと駄目だからです。
そして、この論理自体言葉は良く使われますが、具体的に何なのか理解している人は少ないですから。

そして最初に記載した「帰納法」というのは、言語的思考の別の言い方となります。
それは基本的に直感的思考とは全く異質なものだと言えるでしょう。
この言語的思考の特徴は上でも触れましたが、あまり一般性は持たないのを特徴としています。
ある制限された枠内でのみ有効です。
その制限された枠というのは、例えば自分のみに有効だとか、ある局面のある仕事に於いて有効だとかです。
直感的思考のように普遍性・一般性は持ちませんが、しかし枠をしっかり限定すればかなり強力な武器になるとは記しておきます。
例えば仕事の出来る人、勉強の出来る人は全員この技法を会得しています。
全員と言い切れる位のものなのは、仕事も勉強も出来る貴方なら良く解ると思います。

取り敢えずここまでで膨大になってしまったので次に続きます。
直感的思考によって我々の共通項に辿り着くというのは一体何なのか。
次はこれを説明します。
更に読者を選ぶ日記になってしまうのが申し訳ないですが、ここで記しておかないと多分これを語る機会はもうないと思うので今回は最後まで書こうと思っています。
これは僕が支持している思想(とある科学哲学)の根幹に関わる話だからです。

本来多くとも三部作の予定だったのですが、あと二回位これに関連したネタになってしまいそうです。