自分の話で恐縮なのですが(´・ω・`) | ЯαYの日記

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信なくば立たず

今回は僕個人の話なので、あまり面白くないかもしれません。

しかも暗い話に感じる方もいらっしゃるかもしれません。

なので興味を感じない方はここで引き返されるのをお勧めいたします。













叔父が先日亡くなりました。
去年のとは違い、今回は血の繋がった眷属(けんぞく)です。

子供の頃からずっと可愛がってくれた人です。
叔父はそんな僕を実の子供のように思ってくれてた、数少ない心の繋がりを持てた人だったと思います。

僕の場合は幼少の頃から実の親や兄弟とは残念ながら精神的な交流は持てなかったのです。
まだ幼い子供にとって、これは結構シンドイ事ではありました。

だから自分が不幸だなんて思った事はありません。
僕はみんなの事を考えていて、それが幸せだからです。
自分なりに皆にとって最も幸福な在り方は何だろうかといつも思ってるんですよ☆

別に自分の事を考えない訳ではありません。
が、自分の事考えるのってあんまり楽しくないですよね。
多分考えたり悩んだりする主軸が「自分」ばかりになってくると、生きるのが苦しくなってきてしまうのではないでしょうか。
ストレスが溜まったり、苛々したり、不安になる事も多々あると思います。

ここで話がまた大分それますが(^ω^;)(;^ω^)

例えば会社で上司に叱られたとします。
言ってる内容はともかく、感情的に激高して怒鳴りつけるような人もいるでしょう。
こういった状況で「自分」しか見えてないと、「怖い」とか「ウザイ」とかいうのしか出てきません。
しかし先方が怒るには理由があって、「自分」から離れてソレが見えれば、理由が正当なものならば上司の叱る態度は別にして納得はできるし、納得しなければ理路整然と反論すれば良いだけですよね。

「自分が(被害とかを)受けた」とか「自分がどう」という所から離れないと、不要なストレスを抱え込みます。
論理性に基いて(しかもそんなに高度ではない)考えたり解釈していけば、ストレスがほぼゼロで世渡り?していけると思います。
そんなに難しくはないと思うのですが、コレを説明しても自我に囚われてしまって全然意味が理解出来ない人は結構いらっしゃいますね。
いえ、理解出来ないというより、この事に価値を感じて無いというべきでしょうか。
例えばそういう人の特徴はあまり現実的でない噂話とかを本気にするとかがあります。
どんなにリアリティの無い噂話でも、「自分」と「外の世界(社会)」を分けてないので(そもそもそんな事考えません)、自分個人の認識が世界一般の認識となるのですね。
要するに精神的に幼いと言えるのでしょうが、大人でも沢山いらっしゃいます。

そしてこの種の方々は鬱病になる確率がどうも高いようです。自我と現実や事実との折り合いをつけるのが難しいからでしょう。
或いはそうでなければ、やたらと他人に対して攻撃的になる場合もあります。
無論ソレは他人の言葉をキチント理解しない態度とリンクしています。
例えばイスラム系過激派みたいな精神的態度をイメージしていただけると良いでしょうか。
ネット上で例えば時事問題について自分の意見を主張される方は、一般よりもかなりの高割合でこういった種類の方々だとみて良いでしょう。
mixiとかのニュース関連日記では、この種の主張がかなり散見されると思います。


叔父は2年位前からやや通常よりも白血球が多く、定期的に健診を受けていました。
ただそれ以外に特に異常は見つからず、普通に健康でした。だから煙草も止めてなかったです。

そして今年の6月下旬頃にリンパ節がやや腫れてしまったので検査入院をしました。
このリンパ節の腫れも若い頃から比較的腫れ易い体質で、周りは特別命に関わる等思ってはいませんでした。
いつもよりちょっと悪い程度な感じでしょうか。
それにまだ60歳そこそこなので、命を落とす年齢でもないだろうと皆思ってたと思います。

結論から言えば、その検査入院中に容体が急変してそのまま亡くなりました。
入院後僅か4日か5日後です。死因は脾臓だかすい臓だかの破裂です。
癌とかでもありませんし、病原菌やウイルス等による感染症でも多分ありません。
前日まで至って元気でしたから本当に急です。
医者も原因が全く分らないとの事です。
と言うより、肝臓や腎臓の不全や異常は医者も予測や発見がし易いのでしょうが、多分膵臓や脾臓のそれはノーマークだったのだと思います。
破裂まで悪化してた訳ですから、それらの異常に対しての知識やスキルがあれば対応出来てたのではないかとは思います。
特に脾臓はリンパと大きな関わりを持ってる筈ですから、リンパ節が腫れてる時点で「臭い」と予想するのは難しくないとは思います。

尤もここで医者を責めてる訳ではありません。
同じ医者でも知識やスキルがもう全然違うというのは他の職種と同じです。
かかった医者によって、命を左右する場合も十分在り得るというのは言えるのではないでしょうか。

ところがですね、告別式も終わり一応はひと段落ついたので、奥さんが叔父の所有物を少し整理し始めたんです。
そしたら多分叔父の机の引き出しの中に遺書が入ってたのですね。
自分の体ですからやはり誰よりも分るのか、「今回はヤバイ」と悟ってた訳です。

遺書の中味は、自分が妻と結婚してとても幸福でその感謝の言葉と、子供に対しても同様の言葉で締めくくられてたそうです。

この話を聞いた時に、やはり二年前の検査し始めた時から徐々に体調が悪化してたのを自覚してたのではないかと思いました。
でも特に体重が減ったりする訳でもなく、外見上は変わらなかったので、周りも近くにいる奥さんも全く気付かなかったのでしょう。
自分の体調が悪化してたのを奥さんはおろか、誰にも口外しなかった訳です。

この二年の間にも、奥さんとサイクリングで遠出したり山に登ったりしてますから、そういう時にも以前の自分と違うと認識してたと思います。
そういう時ちょっとキツくても一切奥さんにも言わないで笑顔だけ見せてる。
実際見てないんだけど、良く分る訳です(´・ω・`)

でも突然目の前から消えちゃうのは、我々にはともかく妻や娘に対してはちょっと酷と言えば酷かもしれません。
やっぱり言えなかったのかなと思います。

入院中にも亡くなる前の日にも奥さんが世話に来てたのですが。
奥さんは体が相当悪いなんて知りません。
そんな奥さんを見て、彼の胸に去来するするものが何であったのかですね。
或いは入院中独りになった時に何を考えていたのか。
多分、死ぬのが怖いとかそういうのは殆ど考えなかったと思うんです。
何も言えないで死に至る事に申し訳ないという気持ちとか、メールでも伝えなければいけないのかなとかそういう葛藤とか、あと妻や娘の自分が死んだ後の事が凄く心配だったのだと思います。
でもこれは自分の事だけ考えて、死に怯える最期より大分良いと言えるのではないでしょうか。
僕が他人の事を考えられるのが幸福だというのは、こういう意味なんです。
それは出来るだけ範囲が広い方がより幸福だと思います。家族だけでなく、もっともっと広く。

そして、残された奥さんは「まだ諦め切れない」と言ってたそうです。

この言葉が意味するものが何なのかです。
理性で考えれば「そういう問題じゃない」のですよね。
諦めるか諦めないかは、可能性があってまだ自分の意思次第で何とかなる状況で使う言葉だからです。
もう可能性がゼロなのに「諦め切れない」と言わざるを得ない心情が如何なるものかなんです。
ヒトはこのような心を持つから苦しいのだと思います。

半分はヒトじゃない僕は、長らくこういったヒトの心情が中々理解出来なかったのですが、今回は彼女の気持ちがとても良く伝わってきました。
真正のヒトが持つごく当り前の感覚が分らない僕なのですが、こうしてみんなの心を理解していきたいです。