・はじめに

 
ドナーカードは免許証の裏とかいろんなところにある。
 
余談にはなるが日本ではカードに何も書いていないならデフォルトで「臓器提供しません」という意思表示になる。だからドナーが見つからないのだ。
 
私は某アニメの影響で、ドナーカードに意思表示をするのは自分が死を覚悟した時だと決めていた。
 
(割と核心に迫るネタバレなのでアニメの名前は出せない。いつか私が言及したシーンが出てきたら人生の伏線回収だと思ってほしい。)

 

私はつい先日、面接帰りの電車内で強烈な希死念慮にさいなまれ、ドナーカードを手に取り、臓器を提供することに同意し、署名した。揺れる電車とぼやける視界の中、ペンがぶれて書きにくかった。

 

別に豪快な大ジャンプで肉片になりたい、とか通勤通学の利用客に迷惑をかけたいとか、親を泣かせたいとか、まだそういう領域までは行っていない。

 

躁状態になった私ならやらかしかねないが……。

 

今は辛うじて、追っている女性声優が延命装置になっている。

 

 

・どうしてこうなった

労働はクソである。

 

労働者もまた、一人前に感情を持ち、休みと給与が与えられないと継続して稼働することができず、八十数年ですぐに不可逆的に動かなくなってしまう、欠陥だらけの商品である。

 

就活という名の奇祭の中でそれらは、品評会にかけられ、優良な者が選別される。そういう構造だから私のような不適合者は用無しなのだが、かの日本国憲法とやらによると労働は国民の義務らしい。

 

人事の奴らも所詮は規格化された歯車のくせにリーダーシップだ、コミュニケーション能力だ、コアコンピタンスだのを求めてくる。


お勉強さえできればそれでいいというレギュレーションで戦ってきた私は生憎それらを持ち合わせていなかった。

 

ガクチカに書くこともない。私がやったことなんてソシャゲのイベントを走ったことと、女性声優のイベントに行ったことだけ。サークルも一応入ってはいたが、他人と関わるのがストレスになるため自ら距離を置いていたから自分の実績だと言えることは何もない。アルバイトは必修科目が多すぎてできなかった。否、私の悪い癖が出ているな。必修科目の多さを言い訳にして逃げていたというのが正しい。

 

おまけに私は完璧主義という人生がハードモード化するバッドステータスも持っている。ちなみに、胡散臭い職業適性診断とやらを行うと、私の向いている職業は芸術家やデザイナーらしい。これを翻訳するとお前労働向いてないよ、という意味である。

 

学生気分が抜けてない、甘えだと、糾弾したい気持ちはいったん抑えてほしい。ほら、お得意のアンガーマネジメントというやつだ。

 

なあ、そもそも淡水魚が海水で生きられるわけないだろう?

 

ただ、世の中捨てたもんじゃないと思うのは、「お前は他人を最初から信用しておらず、あろうことか心のどこかで見下している、だから頼るという発想がない。他人を頼るという発想がないからチームでも足を引っ張る」という主旨のことを言われた時だった。

 

これは私が一番コンプレックスに思っていたことだった。

 

たかだか数十分の問答で私という人間の本質が突かれたような気がして痛かった。

 

自分の人生の空虚さに泣きそうだった。(実際泣いた。)

 

でもそれと同時に感謝もしている。

 

なぜなら今も今まで誰もが見て見ぬふりをして私を否定してくれなかったからだ。お前はおかしいって言ってくれなかったからだ。

 

 

いいか、世の中の健常者たちよ、これが「本物」だ。

 

 

 

 

 

狂気に任せて執筆すると案外、書けるもので。

 

 

まだ私に恥ずかしいという感情が残っていたら、このブログはいつか消し飛ばします。

 

 

私も急がなければ。まだ観てないアニメがたくさん残ってる。