大人の役割(下)-1 | ずぼらママのお気楽育児学

大人の役割(下)-1

引き続き湯汲先生のブログから大人の役割についての考察です。青字はブログの引用です。今回の内容もとても深いので、2回にわけて考察します。

子どもは大人に判断基準を求めている、と前回述べました。判断を、子どもに委ねてばかりいると、子どもは適切な判断が学べません。そのために、「やりたい放題」となってしまいます。一種の無秩序状態といえます。


子供に決定させて良い事と大人が主導権を握るべき事の判断を誤ってはいけない、という事ですね。この文だけ読んでも親である事の責任を感じます。

以前書きました通り、我が家では『どっちにする?』という選択はわりと早い段階から提供していました。ルールとしてはどちらを選んでも必ず実行できる事です。ですから『好きなお菓子を選びなさい』と言っておいて、何か選んだら『そんなのダメよ、こっちにしたら』とか、『公園とプールどっち行く?』→『公園』→『え~プールにしようよ。』というような事はしないように心がけました。選ぶ事を任せたわけですから従います。

逆に親が決めた方向で進めたい時には選択権は与えませんでした。

ただ、子供の成長に伴って息子も駆け引きを覚えてきたり、都合よく解釈したりするようになってきましたので、『ここは譲れない』というポイントはこちらも頑張るわけですが、その結果が悪夢の怒鳴りあいという事も1度や2度ではありませんでした。

この切り抜けは、『ここで許したら前例ができるから、息子のやりたい放題になってしまう』とぐっとこらえて、ダメな物はダメという一貫した態度を貫くより方法はない気がします。前例を作らない、特例を作らない、ということですね。融通が利かない子供ですから、今回だけOKという意味は全く通じませんので、今回OKという事はこのドアは開いた、という解釈になってしまいます。危険ですね。


ある中学一年生のAD/HDの子の話です。彼は、好きな授業しか受けません。気に食わないことがあると学校から帰ってしまいます。先生が注意すると大騒ぎです。こういう状態が続くので、担任の先生が相談に来られました。

この子が、学校で勝手な行動をとるようになったのは小学五年の時からでした。担任の先生が、情緒的に不安定だからと彼の勝手を許してしまいました。このために「学校難民」となってしまい、いまもその状態が続いています。子どもを全面的に受容する、子どもの判断を尊重すると考えた結果がこれです。誤解しながら適用すると、ときにはこのような子どもを作ってしまいます。



息子はまさに、このお子さんの道を進む寸前だったように思います。
授業中に大騒ぎはありませんでしたが、3年生の時の担任は事もあろうに、

『授業嫌だったら、他の本読んでてもいいし、廊下に出てもいいよ。保健室に行ってもいいよ。(→先生、これは完全に放置ですよ)』という態度で息子に接していました。(息子談)

ですから、息子は算数など気が向けば授業を聞いていたようですが、あとは全く違う本を読んで時間つぶしをしていたそうです。当然ですよね、当時ランドセルは毎日空っぽで行っていたんですから。そしてその空っぽのランドセルでも注意を受けるわけでもなく、本人の中では何も問題は起こっていなかったわけです。

結局授業に参加していなくても問題ない上に、教室にいなくても良いと言われてしまえば、もう学校に行く意味も見出せなくなるわけですから、あたりまえのように不登校となったと言えるでしょう。毎朝の怒鳴り合いはなんだったのか、とむなしくなります。

息子は文字通り学校難民だったわけで、どこにも所属感を得られないまま、好き勝手に生きて良いと勘違いをし続けていたわけです。

この例からもわかるように、子供に判断などできるわけが無いという事ですよね。すべての判断を子供にゆだねるというのはとても危険だと思いました。先生の見立てでは息子は情緒不安定だから仕方ないという物だったのかもしれませんが、こんな漠然とした選択肢を与えられて安定した心持でいられるわけはありません。

まるで勤め先で『別になんの仕事もしなくていいですよ。本読んでてもいいし、外に行ってもいいし、お茶飲んできてもいいですよ。』と言われているような状況です。私でも即退職しますね。

息子もあの環境から離れる事ができ、現在の学校では幸いに『提出物は出さなくてもいいですよ(その代り、出さなければ評価がでませんから進級できません)』という明確な選択肢が提示されていますので、今は責任を果たすという事を(文句を言いながらも)受け入れています。大きな進歩と思います。


息子に関して言えば、すべてのルールが嫌いという大前提がありますので、朝8時10分に登校するという事さえ受け入れられなかったのですが、ルールを守る意味とルールを守る事で得られる自由という概念を生活の中で理解し始めているように思います。


気持ちを大切に、などと言われますが気持ちという形の無い物を受け入れる受け皿を子供自身に用意させてからでなければ、大切にできないと感じています。ルールが嫌ならルールの事は気にしなくていい、としてしまったら嫌という気持ちを子供自身が受け入れなくなってしまいます。嫌でも一旦自分の中に納めて、何が嫌でどうしたら嫌でなくなるかを向き合って考える。これこそ自分を育てていく唯一の道かと思っています。そして、このプロセスが気持ちを大切にするという、大人が取るべき策ではないでしょうか。


非常に長い道のりでしたが、やっとスタートラインに立てたかなという所です。