ADHD友達の役割 | ずぼらママのお気楽育児学

ADHD友達の役割

お友達の役割について、以下青字はいつもの通り湯汲先生のブログの引用です。

運動系のクラブ活動では、違った姿を見せるAD/HDの子もいます。チームの一員という自覚を持ち、勝利に向かい懸命に役割を果たします。

勝ち負けを競う試合は、目標がわかりやすく懸命になれるのかもしれません。


確かに、運動会のリレーや徒競走、また所属していたサッカーの試合などはとても張り切っていましたし、チームとしてどうしたら勝てるかという事も周囲を見て考えていたように思います。また、木登り・ロッククライミングといった短時間で達成でき、その達成をくりかえす事ができる運動は好んでいます。

しかし『上達する』というあいまいな目標に向かって進むという事を全く理解できず、また時間の概念も欠けている(ように見受けられる)息子にとって、くりかえしの練習がメインの習い事である、体操や水泳、なわとびなどは苦痛そのものだったようです。

昨年まではサッカーチームに所属していたのですが、みんなでワイワイ練習する楽しさを理解できないようで、今期は参加しないと言い張っています。なんせ先を考えられず、目前にならないと判断できないので、直前になってから『やっぱりやりたい』と言い出す可能性は大きいですが。まだ今期開始まで時間がありますので、心の動きに注目しています。

サッカーは上手なんだから(←完全に親のひいき目)続ければいいのにと勧めるのですが、先の事を決めさせるのは勉強させるのと同じくらい難しい点です。何か月後に始まる●●に行くかどうかを今決めて、それを楽しみに待つ、という事ができません。できないというか、想像できないのだと思います。

いずれ中学生くらいになってクラブ活動程度の範囲でお友達と身体を動かすというのでもいいのかな、と思うようにしています。まあ、正直、お友達の頑張りを見聞きするにつけ、親としてとても残念で仕方ありませんが、それも含めて私たちの子なのでね、そのへんのモヤモヤした気持ちはぐっと飲み込みます。


一般的に、小学校高学年あたりから、子どもは仲間との遊び方を変化させます。それまでは、おもちゃやゲームなどで遊びます。ところが五、六年生になると、モノやゲームがなくても友達との話が続くようになります。ときには生きることの意味など、非常に抽象的な物事がテーマになることもあります。

ここで重要なのは、話をすることそのものが目的になることです。このなかで、互いに自分を語りあい、ときには深い理解にいたり、親友となることもあります。



そうですね、この頃突然『人間ってなんで生まれてきたんだろう(生物学的な話ではなく、哲学的意味)』とか『生きるって何?人間は死んだら終わりなんでしょ。』と突然言いだす事があります。

あ~、来たわね~。この時が来たわね~。と思う訳です。

私はもっと遅く大学生くらいの時に色々考えたので、ずいぶん早いわね~とも思ったり、そんなあなたの為に本はとってあるわよ、でも新書だから漢字がいっぱいだわ、と取り留めもない説明をしちゃったりして、

『ママ、言ってる事が意味がわからない。』

と会話中断となるわけです。あらら。

でも、ぜひお友達と色々お話する関係を持ってもらいたいなとは思っています。
今の学校は基本的に親が迎えに行くシステム(学校が山の中なのでね・・・)なので、帰り道におしゃべり、という経験はできないわけです。

そういうわけで、なるべくお友達を家に呼んだり、お友達の家に遊びに行ったりさせて学校以外の時間を持たせるようにしています。


ゲームの主題は、おおむね勝ち負けです。「勝てばいい」との気持は、道徳心が薄い子を生み出す可能性があります。特に心配なのが、中学生や高校生になってもゲームばかりをしている子たちです。ゲーム漬けでは、生きることの意味など人生にとって重要な事柄を話しあえません。このことが、未熟な「大人」発生の一因なのかとも思います。

ゲームばかりの問題点はこういう所にも現れてくるんですね。
やはり本を読むという習慣も忘れさせてはいけないな、と改めて感じました。

冬季オリンピックが始まりますのでね、ちょっと浮足立っております。
ブログ更新が不規則になってすみません。