よし。 | "The Soul Messenger" れいけいのBlog

"The Soul Messenger" れいけいのBlog

輪っか頭のソウルシンガーのBlogでございます。


先週家族に起こった事を記録的に書きました。
そのままを書きました。


すごく長文です。
ぼくやぼくの家族に親交のある方に読んで頂けたら幸いです。






















9月27日(火)午後6時11分に母は息を引き取った。
乳がん。3年半の闘病の末。


この日の14時過ぎに容態が急変したのだそうだ。
息を引き取る2、3時間前苦しんだそうだ。



この時間帯は荻窪でレッスン中で携帯を手元に置いておらず、
一番下の弟、晧からの尋常じゃない数の履歴で事態を察知した。


すかさず電話を掛ける。

もうかなりやばい、もう向かってる途中、と。


夜もレッスンが入っていたのだが
都合を付けてもらい養成所を飛び出て
新幹線で那須塩原に向かう。


逐一弟や父に電話で連絡取りあう。

二人とも声は落ち着いてはいたが逆に事態の深刻さが伺えた。


新幹線で小山を過ぎたあたりだったと思う、
弟から電話。「間に合わなかった」と。


もちろんぼくも間に合わなかったし、弟も間に合わなかった。
最期を看取ることは出来なかった。


一気に力は抜け頭は真っ白になった。



那須塩原に到着、
弟と弟の友人が車で迎えに来てくれた。


なんとありがたいことか。


平然を装いながら普通に会話しあう。
みんながみんなを気遣ってる。


そんなこんなで大田原の日赤病院に到着。
ここに母がいるのだ。

呼吸と鼓動が激しくなっていく。


会いたいけど会いたくない。
会いたくないけど会いたい。


頭の中はもうぐちゃぐちゃ。


看護婦さんの案内で病院の奥へ奥へ進んでいく。
死亡が認められてから別の部屋へ移されたようだ。


母の友人の何人かが駆けつけてくれていたようだが目もくれず、
冷静に手続きをしている父をも通り過ぎ
担架の上の母に辿り着く。


すでに斎場へ行く手配が済まされ
絹のような白い布に包まれている。


担当医の方がぼくに母の顔を見せた。



…眠っているようだった。


お化粧も施され綺麗な顔をしている。
声を掛けたら返事をしそう。


どうしても口が開いてしまうというので
顎にはタオルが挟まれ押さえられていた。


ぼくは担架にうずくまった。嗚咽したんだと思う。
あんまり覚えてない。


悲しむ間はあまり与えられず母は霊柩車に積まれる。
それで良かった。


ぼくも弟も乗り込む。


ぼくは斎場に着くまでの間、
くるまれた布の上からずっと母の手を握った。


なんだか手は温かかった。




斎場に到着、
通夜や葬儀を行う部屋に母を運ぶ。


痩せこけてしまった母だったが重かった。


布団に寝かせ葬儀場の方が作業をこなす。

身体が傷まないよう身体に大きなドライアイスが置かれ
その上に綺麗な柄の布団を掛けた。


まだ起きだすんじゃないかと何度も母の顔を見た。


寝ている母の横で葬儀の手配を始める。

これはする、これはしなくていい、
母の葬儀が出来上がってくる。


生前から葬儀はひっそりと、と言っていた気がする。

多額の治療費がかかってしまったし
たくさんの人に来て頂いたら義理返しが大変だと言ってたかな。


生きてる時にそんな話は聞きたくなかったから
そんな事ぐらいしか覚えてない。




納棺、通夜、出棺、火葬。


母を送る段取りと日程が決まる。
28日は準備日、29日に通夜、30日に火葬だ。


斎場で寝ている母を後にし、帰宅。
何時だったろう?遅い時間ではあった。


中国にいる次男の裕に連絡した。ぼくがした。
動揺しつつ冷静に対応していた。


父と晧と三人で晩御飯。
いろんな話をしながらビールを飲みご飯を食べる。


葬儀でこちらが準備しなくてはいけない事、
母の事を知らない人もいるから
誰に知らせなきゃいけないか、
母の昔話…、
たくさんの事を三人で話した。


気が付けば朝方になっていた。
空も明るくなってきていた。


翌日は準備で奔走だ。寝なくては。




ぼくと弟はかつての子供部屋で床を作る。


どれ寝ようか、という時に
父の寝室から大きな泣き声が聞こえる。


父は号泣していた。

それまでは冷静にしていた父が子供みたいに泣いていた。


今日はお前達そばで寝てくれ、と泣きながら言う。


ぼくと晧は布団を運び入れ、
川の字になって寝た。


小さな頃はみんなでここで寝ていた。

この部屋で寝たのは何年振りだろう?


父はずーっと泣いていた。
こんな父は見たことない。


三十年以上連れ添った妻がもういないのだ。
同じ男性として考えてみたら…想像出来ない。


寝付いたのは何時だったろうか。




9月28日(水)

父は早くから起き出し、家事や葬儀の準備をしている。


父の携帯と家の電話はひっきりなしに鳴っている。


こちらから母の事を告げる場合もあり
同じ事をその都度説明する父がしんどそうだ。


この日は翌日に控えた通夜の準備に追われた。
この地域の慣習にとらわれない我が家式の送り方をするのだ。


遺影もこちらが準備する。

方々に動いていたから母の眠る斎場になかなかいられなかった。


しかし、生前から母と仲良くしていた
ご近所の方が駆けつけてお手伝いをして下さっている。


男では行き届かない部分にまで気を配って頂いて。

ありがたいです…。


弟晧の嫁も東京から駆け付けてくれた。


着の身着のままで出てきたからスーツもない。
スーツも買い揃える。


そんなこんなで準備は完了。


たくさんの花も贈られ
遺品もたくさん並べられ母らしい華やかな空間になった。




9月29日(木)

この日は夕方からお別れ会(告別式)~通夜~納棺。


それまでにお世話になった場所や
お世話になるはずだった介護施設に父とご挨拶に回る。


みんな声を揃えてあんなに元気だったのに…、と。
そう、母は闘病中とても元気だった。実に元気だった。


ぼくもしょっちゅう励まされていたし
他の同年代のがん患者仲間も励ましていたという。


母方の祖母はまだ健在で、施設にいる。

認知症で、ぼくの事を孫だと分からない。
だがぼくの婆ちゃんだ。

ぼくの顔を見るとよく笑う。


母の兄(叔父)と母。
2人の子供はもういない。

その事は婆ちゃんは分からないしいう事もない。




午後からは親しくしていた友人や親戚がたくさんやってきた。

眠っている母と対面するのをぼくら家族は見守る。


母の交友の広さ、深さを知った。


父はその都度母の最期の話をする。
冷静に話をしているのが何とも言えない。


次男の裕も到着。
悲しみを押し殺しながら対面。


われわれ兄弟はあまり悲しみの辛さを表に出さない。
この部分は母親に似たんだろう。


母の闘病中の弱音を聞いたことがない。



そして納棺。


たくさんの方に見守られながら母は棺桶の中へ。


身体の出ている部分を皆で拭いて
その後近親者で棺に入れるのだ。


この時母の頬に触る。母はとっても冷たかった。


母が狭い棺に入れられ、
棺の中に愛用の品を入れていく。

家族の写真、とても多かった洋服、
抗がん剤で毛が抜けはじめてから集めていた帽子…。


ぼくも母がお出かけの時に
よく着ていた服を着せるかのように身体に合わせて入れた。


この服着てどこか出かけてたなぁ~と
その瞬間ふわっと記憶が蘇った。


涙がいっぱいいっぱい入ったコップ。

ちょっとでも揺らすと涙がこぼれる。

ずっとそんな状態だった。


夜は父と次男と3人で黒磯駅前の寿司屋に行き、
この日は次男と一緒に母のそばで寝た。




9月30日(金)

この日は出棺~火葬。

身体は燃やされていなくなってしまう。身体は。


この日もたくさんの方が駆け付けてくれた。
毎日のように駆け付けてくださった方もいる。


棺に花を添え最後の別れを告げる。


とにかくありがとう、だ。それに尽きる。

母のおかげでぼくら兄弟は生きている。


全員の焼香が済み、いよいよ出棺だ。


父が挨拶。
実に頼もしい挨拶の言葉だった。


そして長男のぼくも挨拶。
なにかを必死でこらえて話した。


そして歌を贈った。
母の還暦祝いの時に作った歌を。

母の入った棺の前で。


母の「しっかり歌いなさいよ」という声が聞こえた気がする。
そのせいか幾分ちゃんと歌えた。




出棺。


骨壺は父が持ち、ぼくは遺影を持ち
霊柩車に乗り込み火葬場へ。


3年前に祖父も同じ場所で荼毘に付された。


火葬場に到着。

入り口に入るや否や棺は火葬される準備へ。


てきぱきと係のおじさんが作業を進める。
別れを惜しむ時間は無い。それでいいと思った。


点火のボタンを父が押す。
ためらったあの瞬間は今もしっかり焼き付いている。


母は焼かれて骨だけになる。


その間親戚達と会話を交わす。
近況や何気ない会話。


なじみのある母の友人達とも結構話をした。


そして収骨。

骨を骨壺に入れていく。

2人で1つの骨を壺に入れる骨上げをしていく。


骨は抗がん剤の影響で変色している部分もあった。

下顎の骨や歯は残っていた。


係のおじさんがこの骨がどこの骨かを説明しながら
壺に全部の骨を入れる。


埋葬証明書(だったと思う)を中に入れ
白い布で縦結びにしっかり結われ
その骨壺と遺影を外まで運び、
一連の式は終了となった。




いざ始まってみればあっけないような気もした。




3年半前の母からのメール。

「お母さん乳がんだって。でも頑張るから。」


その時ぼくはメッセンジャー稼働中だったのだが
その後の仕事がまったく上の空だったのを覚えている。


当時母方の祖父母は二人とも介護が必要で、
母が全部面倒を見ていた。


左胸が痛んではいたらしいのだが
湿布などを貼ってごまかしていたらしい。


本当はがんだと薄々気付いていたのでは…。


そうしたら祖父母の面倒は誰が見るんだ、
そうこうしている間にがんは進行していたのだ。


がんだったけど認めたくなかったのだろうか。


ぼくも何度も宇都宮のがんセンターに付き添った。
検査、検査、検査。


家族全員でもがんセンターに行った。
末期の乳がん。

母は洗いざらい全部言って下さいと言った。

余命は3年。

交通事故などの事故に合わない限り
この病気で死にます、と担当医は言っていたな。


今後の対策、抗がん剤の副作用
事細かに説明を受けた。


その時の診断書は今もまだぼくは持っている。


その後3年半。

転移しては放射線治療や抗がん剤、ガンマナイフで
がん細胞と闘った。


毛は抜け落ち、体は痩せ細り、
爪も小さくなり、顔は黒っぽくなってむくんでいた。


けれど常に元気だった。

はきはき大きい声で笑顔だった。


盆と正月しか帰らなかったけど
病気になってからは時間の許す限り帰った。


昔からお互いの母同士も仲の良かった鼓緒太と
地元で何度もライヴ出来たのも楽しかったな。


母もよく鼓緒太のピアノで「命くれない」歌ってたな(笑)


那須や塩原のいろんな所へよく父と母と出掛けたりもした。
その時に撮った写真や動画は宝物だ。


会う度に病状は悪くなっていっていたのだが
こんな日が来るとは信じたくもなかった。


9月に入ってから急激に体調が悪化し入院。

抗がん剤に耐えられるだけの体力もなく抗がん剤も止めた。


要介護2と介護認定も受けていたという。
この認定が下りる頃には
要介護4くらいの症状になっていたと父は言っていた。


急激に病状は悪化していったのがわかる。


父に母の状況はまめに電話で聞いていた。




ぼくがお盆に帰った時は
母は認知の症状はみられたものの、かなり元気だった。


認知になってしまったのはがんが脳に転移してしまったから。

それが脳を圧迫し脳の機能を低下させたのだ。


自分でしっかり歩けるほど元気だった。


記憶力や思考能力は著しく低下していたが、会話も出来た。


あの時こうすれば良かった、なんて事を挙げればきりがない。
後悔なんてしたって仕方がない。


生きている間にいろいろな事が出来たと思う。


会ってほしい人にも会ってもらえた。




3年半前に覚悟していた事。

その時3年と言われた余命から半年も生きた。


認知がはじまってから薬を飲むのを嫌ってか
いろんな所に隠していた。


副作用がきつかったんだと思う。


母は本当に頑張った。
そしてずっとそばにいた父も頑張ってくれたと思う。


典型的な亭主関白で、家の事を全くしなかった父が
最後まで母の面倒を見、介護までし、家事や料理もしていた。


不器用なんだけど、母への愛を感じた。
父は母を愛していた。


母と父の息子である事を誇りに思います。


死は必ず訪れます。
ぼくだって誰だって死にます。

生きてる間にやれる事思い切りやろう。

母の死はそう思わせてくれた。




心にぽっかり穴が開いて
毎日母の事が頭に浮かんでしまうのだけど、
これからしっかり生きていかないと
お母さんに怒られるので気持ち切り替えて頑張る。


お母さん、今までありがとう。




よし。