五年前の夏、設楽涼香は、瀕死の状態にあった。

「ご家族の方を、呼んでいただけませんか」

 彼女を診察した医師は、彼女に付き添ってきたバイク仲間に対し、そう言った。

救急病院へ救急車で搬送されたと、付き添いのバイク仲間から電話連絡を受けた彼女の母親、設楽志奈子は、自宅のリビングのソファーに座り込み、暫し茫然とした。

 事故の影響により、彼女の体中の主たる骨が数カ所、骨折していた。

幸い、内臓にはダメージが無かったが、しばらくの間、普通に生活できる状態では無くなった。

 

 週末、彼女は取得したばかりの二輪免許で、オートバイに乗っていた。

バイクショップで知り合った仲間達数名との、初めての長距離ツーリングに、胸をときめかせていた。

そんな彼女を襲ったのが、旅先での、飲酒運転による事故の巻き添えだ。

 市街地を走行中、対向車線を走る乗用車が突然、走行車線に突っ込んできたのだ。

反射的にハンドルを切ったが、その後のことは覚えていない。

 

 現在、二十四歳になる彼女は、車椅子でのリハビリ期間を得て、奇跡の復活を遂げていた。

手術時に入っていた、骨を固定するためのボルトは、すべて、彼女の体から取り去られていた。

 

 

「設楽さん、お客様がお帰りです」

 東京都下にある大手商社で受付事務を担当する彼女は、カウンター席を立ちあがり、商談を終えた来客を見送った。

営業課の中堅社員、中野拓也が、出口まで来客に付き添う。

「ありがとうございました」

 彼は深々とお辞儀をして、来客の姿が見えなくなるまで見送った。

来客の姿が見えなくなると、彼は身を起こし、姿勢を正した。

 

「設楽さん、お疲れ様です」

 彼はカウンター席に歩み寄ると、彼女にそう言った。

「あ、お疲れ様です。中野さん、商談は上手くいきました?」

 彼女は、笑顔で中野にそう言った。

「なかなか手ごわいお取引先でね。もう、何回頭を下げたのか、忘れたよ」

 彼は新卒でこの会社に入社して数年が経過し、既に、会社を支える中堅社員となっている。

現在、二十八歳になる彼は、彼女に好意を寄せており、度々、声を掛けてくる。

「あのさ、今度の土曜日って、何か予定ある?」

 彼は、設楽に言った。

「え?」

 ここのところ、週末が近付くと、彼は決まって、彼女の予定を聞いてくる。

悪い気分ではない。

 

 事故の後、学生時代に付き合っていた木戸琢也とは、別れる事になった。

リハビリに励む彼女に対し、当時の元彼は、冷たい態度を取っていた。

「老後ならばともかく、現在の君に責任を負えない」

 それが、彼女に対する、彼の最後の言葉だった。

 

「設楽さん、週末、ドライブに行かない? 実は最近、車を買ったんだ」

 中野からの誘いを、どうするか。

彼女は、悩んだ。

「えっと、今週は、ちょっと予定があって・・・」

今週末の彼女の予定は、実は、特に埋まっていない。

 週末は、下北沢あたりをぶらぶらするのが、彼女の日課のようなものだ。

事故の影響か、歩くとき、不意に痛みが襲ってくる事がある。

それが、気掛かりだった。

「そうだよね。急に予定聞かれても、困るよね。そうだ、これ」

 そう言って、彼は胸ポケットから、一枚のメモ用紙を差し出した。

「え? これ・・・」

 手に取ると、電話番号が書いてある。

「じゃ、部署に戻るので」

 中野は、軽く手を振りながら、オフィスへ通じるエレベーターに乗り込んだ。

彼女は、受け取ったメモを小さく折りたたみ、胸ポケットに仕舞った。

 同僚の三谷沙織が、来客の案内を終えてカウンターに戻ってきた。

「おかえりなさい」

 彼女は、戻ってきた三谷にそう言った。

「設楽さん、もうすぐお昼だから、先に休憩を取ったら?」

 カウンターを無人にすることは出来ないため、彼女たちは交代で休憩をとる。

「ありがとうございます。では、お先に」

 設楽はエレベーターに乗り、女子更衣室があるフロアへ移動した。

ロッカーで私物のポーチを手に取り、社員食堂へと向かう。

 

 彼女が勤める会社には社員食堂があり、そこで昼食をとることにした。

ちょうど昼食時間のタイミングもあり、テーブル席はそこそこ埋まっている。

チケットで昼食を選び、おかずとご飯の載ったトレーを持ち、空席に座った。

「いただきます」

 周囲は雑談が飛び交い、にぎやかだ。

ひと口、ご飯を口に運んだところで、向かい側から声が掛かった。

「相席、良いですか?」

 営業課の男性社員、神谷弓弦だ。

「あ、どうぞ」

 彼はテーブルにトレーを置き、椅子を引いて座った。

「いつも受付業務、お疲れ様です」

「あ、ありがとうございます」

 神谷は若手のホープで、彼女より一歳年下の営業社員だ。

「この前の土曜日、下北で、設楽さんを見かけましたよ」

「え?」

 神谷は、お箸を手に取った。

「あ、偶然ですよ、偶然。彼女とデート中に、設楽さんがレコードショップに入るとこに出くわしたんです」

「そうなんだ。全然、気が付かなくて」

 神谷は、おかずに手を伸ばした。

「渋谷の人混みに疲れた人が、結構行くんですよ。下北」

 彼はおかずを口に運びながら、そう言った。

「初めて聞いた。確かに、渋谷の人混みには疲れる」

 彼女は、相槌を打った。

「なんて言いながら、実は、いまの彼女に出会ったのが、渋谷なんですけどね」

「へー」

「設楽さん、下北の美味しいお店、知ってたら教えてください」

「あ、ゴメン。一人じゃ敷居高そうで、あまり詳しくないの」

「そうなんですか。じゃ、今度、美味しいお店見つけたら教えますね」

 冷たいお茶の入ったグラスを、彼女は手に取った。

「今度、彼女を紹介してよ。神谷君が見初めた子、興味あるな~」

「そうですか? うん、彼女の予定を聞いておきます」

 

 設楽涼香は、終業時刻のタイミングで、腕時計を見た。

秒針の無い、スクェアタイプの小さな腕時計だ。

週末ともあって、帰路を急ぐ社員達が、目の前を通り過ぎていく。

「お疲れ様です」

 神谷弓弦が、声を掛けてきた。

「まだ、帰れないんですか?」

「うん、ちょとね」

「僕、彼女と待ち合わせてるんで、お先に失礼します」

「お疲れ様」

 彼は足早に、エントランスに向かって歩いた。

彼女がここにいるのには、事情があった。

今日の勤務シフトでは、既に勤務時間を終えている時間であり、ここには居ない筈だった。

本来、今日の遅番を担当する彼女の同僚、三谷沙織が体調不良を訴え、急遽、残業せざるを得ない状況になったのだ。

今日の彼女は午前八時からの勤務となっており、一時間の時間外勤務を余儀なくされた。

 午後六時を過ぎ、ようやく彼女は受付カウンターを離れることができた。

退社する社員とは逆方向に、彼女は歩いていた。

エレベーターホールに立ち、上階へ行くためのエレベーターのボタンを押す。

柔らかい電子音とともに、彼女の目の前の扉が開いた。

 仕事を終え、退社する社員が数名、エレベーターから出てくる。

「あ、お疲れ様です」

 数名の社員の中に、中野拓也の姿があった。

「いま終わりですか? 今日は遅いですね」

 中野は、すれ違いざまに設楽に声を掛けてきた。

「あ、はい。三谷さんが調子悪くて」

 彼女は空になったエレベーターに乗り込み、行先階のボタンを押した。

エレベーターの扉が閉まる際、向こう側で手を振る中野の姿が見えた。

 

 彼女は、これから事務フロアに行き、日報を整理しなければならない。

これから、少なく見積もっても、三十分程度の残業が追加になる。

「はー、疲れた」

 上昇するエレベーターの中で、彼女は背伸びをした。

彼女が所属する、総務課のある階に、エレベーターが停止する。

扉が開き、フロアに入室すると、まだ、数名の社員が残って仕事をしていた。

「あら、設楽さん。今日は遅いのね」

 総務課の事務員、長野真悠子が、湯沸かしポットを手にして、声を掛けてきた。

彼女は現在、四十二歳で、大学生の長女、高校生の次女を育てながら、正社員として働いている。

二人の子供の父親は、病気のため、一昨年前に他界していた。

「長野さん、お疲れ様です。今日、三谷さんが体調を崩してしまって」

 設楽は、日報を胸の前に抱えながら、そう言った。

「あら、そうだったの。今朝、あなたの顔を見かけたから、今日は早番なんだなって思ってたの。あ、そうそう、総務課長がお土産のお菓子を持ってきてたから、あなたにもあげる。これ、片付けたら席に持っていくから、ちょっと待っててね」

 彼女はそう言いながら、給湯室に向かって歩いて行った。

「ありがとうございます」

 設楽は、受付事務担当者用に用意された、専用デスクに向かって歩いた。

デスクの上に書類を置き、キャスター付きの椅子を手前に引いて座った。

事務処理用に用意された、ノートパソコンのモニター画面を開く。

電源は既に入った状態であり、キーボードを叩いて、ログイン用のパスワードを入力した。

 画面が立ち上がると、彼女は所定のプログラムを開き、今日の来訪者情報、苦情等の受付内容を、詳細に入力していく。

 

 慣れた手つきでキーボードを叩く彼女の足に突然、激しい痛みが襲った。

「い、痛い」

 マウスから離した右手で、痛みのある足を摩る。

ふと、視線をパソコンの画面に戻すと、白地に赤い文字で、人の名が記されていた。

「え?」

 彼女が画面を確認しようとすると、瞬時にパソコンの画面は元の入力画面に戻っていた。

「な、なに、今の」

 ウィルス対策の施された、業務用のパソコンだ。

彼女はすぐにウィルス対策プログラムを起動させ、パソコンのウィルス感染状況を確認するが、異常なしとの画面がポップアップされるだけだった。

 

 ロッカールームで私服に着替えた設楽は、エレベーターホールで呼びボタンを押し、下階へ降りるためのエレベーターを待つ。

“ポーン”と柔らかい電子音が鳴ると、目の前のドアが開いた。

誰も、乗っていない。

 腕時計の針は、午後七時を過ぎていた。

この時間に残っているのは、営業課の一部の社員と、オフィスビルを管理する施設管理員と警備員くらいだ。

(三谷さん、だいじょうぶかな)

同僚の事を気に掛けつつも、明日のシフトの事が気になった。

明日も、今日のように通しのシフトに入らないといけないかもしれない。

不安が、胸をよぎった。

 

 翌日の早朝、自宅にいる彼女の、スマートフォンが鳴った。

出社前の、身支度を整えていたタイミングだった。

「はい、設楽です」

「ああ、設楽さん? 総務課の梶原です」

 電話の相手は、彼女の上司にあたる、総務課長の梶原だった。

「誠に申し訳ないのだけれど、今日も通し勤務をお願いできませんか」

「え、三谷さん、今日も体調が悪いんですか」

「詳しいことは言えないが、まあ、そういう事です」

「わ、分かりました」

「あ、それから」

「はい?」

「あたらしく、派遣社員を採用するので、教育の方もお願いしたい」

 彼女の不安は、的中したようだ。

「あ、はい。いつから・・・」

 総務課長からの電話は、一方的に切れた。

 

 設楽涼香は、会社に出社し、ロッカールームで制服に着替えていた。

ふと、隣のロッカーに視線が動く。

彼女の隣のロッカーにある筈の、“三谷”のネームが取り外されていた。

(え、どういう事?)

体調不良で休んでいる筈の、三谷沙織の身に、何があったのだろう。

着替えを終え、ロッカーの扉を閉めたタイミングで、事務員の長野が入室してきた。

「設楽さん、おはよう」

「あ、長野さん、おはようございます」

「今日も一人勤務なの?」

「そう、みたいです」

「あなたも大変ね。そうそう、三谷さんの件、聞いてる?」

「え?」

 長野真悠子は、ロッカーの扉を開きながら言った。

「彼女ね、妊娠してたみたいなの」

「えっ、そうなんですか。全然、気が付きませんでした」

 設楽は、驚いた表情をしてみせた。

「それがね、どうやら相手が、妻子持ちみたいなのよ」

 普段の業務中での会話で、彼女から、そのような話は聞いたことが無い。

「あの、持ち場へ行きますので、失礼します」

 設楽はロッカーの扉の鍵をかけ、ポーチを左手に持った。

「頑張ってね」

 出入口の扉に手をかける設楽の背後から、長野の労いの言葉が聞こえた。

 

 

 設楽涼香の勤務するオフィスビルの受付カウンターに、二人の男性が現れる。

「いらっしゃいませ」

 椅子から立ち上がった彼女は、少し張った声で、訪れた来客を迎えた。

ダーク色系のスーツを着た男性二人が、やや緊張したよう面持ちで、カウンターにいる彼女に近づいてくる。

 一人はやや年配で、白髪交じりの短髪だ。どちらかというと、坊主に近い。

もう一人は、髪を七三分けにし、いかにも真面目なタイプの中年男性だった。

「や、どうも。失礼します」

 やや年配の男性が、彼女に声を掛けてきた。

彼は、周囲を見渡しながら、言った。

「随分と、立派な会社さんですね」

 続けて、彼は言った。

「あの、実は、こういう者でして」

 彼は、スーツの内ポケットから、チョコレート色の二つ折りのパスケースを、慣れた手つきで手際よく取り出した。

タテに開かれた二つ折りのパスケースには、上部に顔写真と氏名が記されており、下部にバッジが付いていた。

「宮沢と申します。少し、お話を伺えませんか。いえ、ここで結構です」

 そう言いながら、彼はパスケースを内ポケットにしまった。

「ここに、三谷沙織さんという方が、お勤めでしたよね」

 時折、笑顔を見せながら話す彼だが、眼光は鋭い。

「え、ええ。彼女、体調を崩してしまって。昨日から、お休みをいただいておりますが」

 戸惑いながらも、設楽は、宮沢と名乗る年配の男性の質問に答えた。

「そうでしたか」

 宮沢と名乗る男性は、彼の後ろに立つ、七三分けの男性を振り返り、視線を合わせた。

七三分けの男性は、黙って頷いた。

「最近の彼女に、何か変わった様子は、ありませんでしたかね」

 年配の男性は、続けて言った。

「い、いえ。特に」

 設楽は、今朝のロッカーでの、長野との会話を思い出した。

そのことを、ここで喋って良いのかどうか、迷った。

そんな彼女の様子を、年配の男性は見逃さなかった。

「なんでも結構です。なにか思い当たる事があったなら、私共に情報をいただけませんか」

 彼はそう言って、名刺を一枚、彼女に差し出した。

受け取った名刺を一瞥して、設楽は言った。

「あの、三谷さんに、何かあったのでしょうか」

 その言葉を聞いて、七三分けの男性が、前に歩み出ようとした。

「実は・・・」

 言葉を発しかけたその男性を、年配の男性が遮った。

「いえいえ。また、日をあらためて、お邪魔させていただきますので」

 頭を下げた年配の男性は、七三分けの男性の肩を小突いて、後ろを向いた。

「さ、行くぞ」

 七三分けの男性は、設楽に丁寧に頭を下げ、年配の男性の後ろに続いて、エントランスの出口へ向かって歩み去った。

 

 彼らが立ち去った直後に、一人の女性を連れた、総務課長の梶原がやってきた。

「設楽さん、お疲れ様。今の、誰?」

 彼女は、受け取った名刺を、彼に見せた。

「警察の方みたいです。三谷さんに、何かあったのでしょうか」

 梶原は、その名刺を手に取って、老眼鏡越しに、じっと見つめた。

「ふーん。そう言えば、今朝は、彼女から連絡が無いな」

 彼は、その名刺を、設楽の手に戻した。

「ところで、彼女が、今日から君の仕事を手伝ってもらう、吉谷さんだ」

 彼は、隣に立つ女性を、彼女に紹介した。

「はじめまして。吉谷と申します」

 彼女は、丁寧に頭を下げた。

見かけは二十代前半。設楽より、年下に見える。

「はじめまして、設楽と申します」

 設楽も、彼女に倣って頭を下げた。

「じゃ、そう言うことで。あとは、宜しく頼みます」

 そう言い残すと、梶原は、エレベーターホールに向かって歩き出した。

 

 設楽涼香は、カウンターに設置されたキャビネットの引き出しの中から“研修中”のプレートを取り出した。

「お仕事を覚えていただくまでの間、これを胸に付けていてください」

 彼女は、そのプレートを、派遣社員の吉谷に手渡した。

「分かりました。ご指導、よろしくお願いします」

 三谷が不在のいま、一人で仕事を抱えなければならいないという不安が、一時しのぎにせよ、解消された事に、設楽は安堵を覚えた。

 

 二人は、カウンターに備え付けの、アームレストの無いシンプルなオフィスチェアに、並んで座る。

「吉谷さん、このお仕事は初めて?」

 設楽は、正面を向いたまま、彼女に話しかけた。

「はい。派遣会社に登録してから、初めてのお仕事です」

 吉谷は、設楽の横顔に向かって答えた。

「そうなんだ。それじゃ、まず、ファイルに綴じているマニュアル、最後まで読んでください」

 彼女はそう言うと、少し厚地の紙製のファイルを取り出し、吉谷に手渡した。

「それと、ここで私とお話する時は、いつ来客があっても応対できるよう、正面を向いたままで、お話してね」

「あ、すみません。分かりました」

 吉谷は、素直に応じて姿勢を正した。

設楽は、続けて言った。

「吉谷さん、来客が無い時は座っていても構いませんが、応対する時には、必ず立って応対するようにしてくださいね」

「はい、分かりました」

 

 吉谷は、やや緊張した面持ちで、マニュアルに目を通す。

その横で、設楽はフロアを行き交う社員や、来客の流れを見守っていた。

「おはよう、設楽さん」

 ビジネスバッグを手にした、神谷弓弦が声を掛けてきた。

「あら、神谷さん。今日は遅い出勤なのね」

 設楽は、左腕の時計に視線を移す。

時刻は、午前十時を過ぎたところだ。

「あ、バレました?」

 彼は、声を小さくして言った。

「あの、隣の方、新人さんですか?」

 彼の声が聞こえたのか、設楽の隣に座る吉谷が突然、立ち上がった。

「は、初めまして。吉谷美和と申します! よろしくお願いいたします」

 彼女は、神谷に向かって深く頭を下げた。

「あ、そんな。僕、ここの社員なんで。困ったことがあったら、何でも気軽に相談してくださいね」

 神谷は少々、面食らった様子だった。

 

 カウンターの二人は、神谷がエレベーターホールへ移動するのを、見送った。

「素敵な男性ですね」

 吉谷は、神谷の姿が見えなくなるまで、彼に視線を送っていた。

「吉谷さん、彼氏いないの?」

「はい」

 吉谷は、視線を自身の指先へ移動させた。

マニキュアの状態を、チェックしているようだ。

「彼ね、彼女いるんだよ」

 設楽は、視線を正面に向けたまま、吉谷にそう伝えた。

「あ、そうなんですか。でも私、気にしてません」

 吉谷は、さらりとそう答えた。

(はっ? どいう事?)

 設楽は、声に出さずに、心の声を飲み込んだ。

「設楽さんは彼氏、いらっしゃるんですか?」

 設楽は、吉谷の横顔を一瞥し、視線を正面に戻した。

(それ、答える必要ある?)

「ま、まあ、人並みにね」

「そうですよね。絶対、モテそうですもん」

(おいおい、)

「このお仕事、選んでよかったです」

(甘いな、まだ何も経験してないのに・・・)

 設楽は、心の声と葛藤する羽目になった。

 

 フロアマップを手に取り、吉谷は熱心に暗記をしている。

「この会社、部署が結構あるんですね」

 彼女は指先で、階層ごとの部署を追う。

「それは、上場企業だからね。それなりの規模にはなるわね」

 正面を向いたまま、設楽は答えた。

「社長って、どんな方なんですか?」

「・・・」

「あれ、設楽さん?」

 設楽は突然、椅子から立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。

「おはようございます!」

 設楽はいつもより声のトーンを上げ、目の前を通過する人物に対し、挨拶をした。

受付カウンターの五メートルほど先を、数名を従えた初老の男性が歩いている。

その男性は、この会社の代表取締役社長 出島剛太郎だ。

 一行がエレベーターに乗り込むまでの間、彼女は立ったまま見送った。

「もしかして、いまのが社長さんですか?」

 吉谷は、目を丸くして言った。

「そうよ、出島(いでしま)社長」

「えー、凄い! 初日に、社長さんに遭えちゃった」

 吉谷は、瞳を輝かせていた。

「偉い人が通ったら、席を立って、大きな声で挨拶をしてくださいね」

「はい、分かりました」

 設楽は、左手で自身の顔を扇いだ。

(あー、冷や汗かいた)

 

 新人派遣社員の吉谷が着任してから、半日が過ぎた。

「吉谷さん、お昼だから、先に休憩を取ってください」

 設楽は彼女に向かって、そう言った。

「えっ、一緒にお昼、食べられないんですか?」

 吉谷は、少し驚いたような表情で、彼女に言った。

設楽は、精一杯の笑顔を作りながらも、自身の顔が引きつるのを感じていた。

「このポジション、空けるわけにはいかないからね」

(あたりまえだよ。甘いな、新人ちゃん)

「そうなんですね。分かりました!」

 吉谷は、勢いよく立ち上がると、そのままエントランスに向かって歩き始めた。

(ちゃんと、時間までに、戻ってくるんだろうね? 不安だよ)

 休憩で外出しようとする吉谷と入れ違いに、社員の中村が、エントランスの自動ドアを潜って入ってくるのが見えた。

 彼は、左腕の腕時計を見ながら、こちらに向かって歩いてくる。

設楽は、敢えて視線が合わないよう、遠くを見ていた。

(なんか、ドキドキする)

 少し経って、彼がカウンターに近づいてくるのが分かった。

「設楽さん、お疲れ様」

 声を掛けられて、初めて気が付いたような素振りをする。

「あ、中野さん。お疲れ様です!」

 中野は、ビジネスバッグのストラップを、肩に掛け直しながら言った。

「この時間にここに居るって事は、お昼は、これから?」

「はい、新人が入って来たので、先に、休憩に行ってもらいました」

「そうなんだ。自分、お昼はこれからなんだけど、たまには、外食どう?」

(え、マジ? このタイミング、どうにもならんわ~)

「新人のコ、ちゃんと、時間通りに帰ってくればいいんですけど」

「え、どういうこと?」

 設楽は、目線を下に伏しながら言った。

「ちょっと、不安なんですよね」

 その言葉を聞いて、中野は、笑顔で彼女に言った。

「設楽さんなら、ちゃんと新人さんの面倒、みれると思います。今日は大変そうだから、また、日をあらためてお昼、誘いますね。頑張って!」

 そう言うと、彼は設楽に向かって軽く手を振り、エレベーターホールに向かって歩いて行った。

(あーあ。行っちゃった)

 設楽はこっそりと、唇を尖らせる仕草をした。

(三谷さん、はやく戻って来ないかな。何で、警察のひとが来たんだろう?)

 

 一日が、あっという間に過ぎていく。

午後六時まで、あと十五分。

受付カウンターで、設楽の隣に座る新人派遣社員の吉谷は、先程から、しきりに腕時計を気にしていた。

「どうでしたか? このお仕事、長く続けられそうですか?」

 設楽は、人影がまばらなエントランスフロアから、視線を隣の彼女に向け、そう言った。

「そろそろ、お着替えしてもいいですか?」

 設楽の問いかけには反応せず、吉谷は、ソワソワしながらそう言った。

「えっ?」

「このあと、彼と飲みに行く約束してるんです。時間にうるさい人なんで、遅れると、凄く怒るんです」(今朝、彼氏いないって、いってたよね?)

 その言葉を聞いて、半ば呆れたように、設楽は言った。

「あなたの会社との契約が、そうなっているのなら、私は構わないけれど」

「ですよね。ごめんなさい」

 きっかり午後六時になると、吉谷は慌ててエレベーターホールに向かって、急ぎ足で歩いて行った。

(なんだ、あのコ。こんなんじゃ、先が思いやられるわ)

 無意識に、設楽は溜息をつき、視線を落とした。

 

「設楽さん、お疲れのようですね」

 不意に、男性から声を掛けられ、彼女は視線を上げた。

営業時間外にカウンター業務をこなす、警備員の五十嵐だ。

「お疲れ様です。交代の時間です」

 制服姿の彼は、挙手の敬礼をして、彼女に交代を告げた。

「もう、こんな時間なんですね」

 設楽は日報を手に、カウンターの席を立ちあがった。

「そういえば、三谷さんの姿を見かけませんね」

 現在、三十歳になる五十嵐が言った。

「五十嵐さん、三谷さんの、ファンなんですよね」

「え? ご存じでしたか」

「だって、隙をみては、三谷さんに話しかけてましたよね」

「いや、お恥ずかしい。バレてましたか」

 設楽は、日に焼けた顔を赤らめる五十嵐の顔を見て、クスリと笑った。

「三谷さん、突然、休んでしまって。心配ですよね」

 設楽は、椅子をカウンターの中に仕舞いながら、そう言った。

「そう、ですね」

「では、あとは、よろしくお願いします」

 設楽は軽く会釈をして、エレベーターホールに向かって歩いた。

彼女が上階へ行くためのエレベーターの呼びボタンを押そうとするタイミングで、目の前のエレベーターの扉が開いた。

物々しい勢いで、一人の女性が、中から飛び出してきた。

 別人とも思えるような、派手な化粧をした吉谷だった。

「あ、ごめんなさい! 急いでいるんです!」

 あまりの勢いに押され、設楽の体は一瞬、硬直して動きが止まった。

(一体、何者なん? 勘弁してよ)

 

 設楽は、空っぽになったエレベーターに乗り込み、行き先階のボタンを押す。

扉が閉まると、甘い香水の香りが、彼女の鼻腔を刺激した。

(うわ、こんなキツイの。あの子、何考えてるの?)

息を止めてみるが、そう長くは続かない。

このまま、他の階にエレベーターが止まり、誰かが乗ってきたなら、勘違いされそうだ。

(どうか、誰も乗って来ませんように)

総務課のあるフロアに到達するまでの間、彼女は気が気ではなかった。

 

 エレベーターが停止し、扉が開く。

意外と、静かだ。

それもその筈で、今日は週末の金曜日。上役の社員たちは皆、方針確認会という名の飲み会で、早々に退社して、酒宴の場へ移動しているのだ。

「お疲れ様」

 事務員の長野が、声を掛けてくれた。

「長野さん、お疲れ様です」

「そういえばさ、設楽さん。何か、とんでもない新人さんが入って来たみたいね」

 さすが長年、この会社に勤めている社員だ。

少し変わり者の派遣社員の事を、早々に察知したらしい。

「なんだか、色々と、気疲れしてしまって」

「わかるわかる。自分の仕事もこなさないといけないし、新人の面倒も見なきゃだもんね」

 設楽は彼女の事を、自分の母親のように慕っている。

「派手な化粧して、キツイ香水ぶちまけてたわね。何か、怪しいバイトでも掛け持ちしているんじゃない? ちゃんと仕事に来る気、あるのかしら」

 長野のその言葉を聞いて、設楽は、少し不安な気持ちになってしまった。

 

「設楽さん、疲れたでしょ。美味しいコーヒーを淹れてあげるから、席で待っててよ」

「ありがとうございます」

 設楽は、総務課の専用デスクに向かって歩く。

パンプスを履く足が、いつもより張っているように感じる。

周囲を見渡すと、デスクワークをしている社員は数名だ。殆どの社員は帰宅していて、遅番の時に見る、いつもの風景だ。

「あ、痛っ」

 彼女の足に突然、激しい痛みが襲う。

思わず、手に持っていた日報を床に落とした。

身を屈めながら、右手で痛む足を摩る。そして、空いた左手で、落とした日報を拾った。

 少し痛みが治まったところで、ゆっくりと身を起こす。

立ち上がった彼女の目の前に、見慣れない光景が広がった。

総務課にある複数台のパソコンの画面が、一斉に白く輝きだしたのだ。

「えっ」

 “秒”という数字の単位が通用しないくらいの、一瞬の出来事だ。

そして、その白く光る画面の中に、赤い文字が浮かび上がっていた。

人の記憶にとどめるのが困難な程の、一瞬の出来事だ。

 足の痛みが治まると、すべてがリセットされたかのように、静寂が訪れる。

周囲で活動する人々は、何事もなかったかのように、行動している。

 椅子を引き、デスクの上に日報を置いて座った。

ノートパソコンのモニター画面を開き、電源スイッチを入れる。

いつものように、パスワードを求める画面が現れる。

「設楽さん、お待たせ。コーヒーをどうぞ」

 長野が接客用のトレーにコーヒーカップを載せ、運んできてくれた。

良い香りが、漂う。

「ありがとうございます。いい香りですね」

 その言葉を聞いて、長野は嬉しそうに笑った。

「うちの主人がね、生前に大好きだった豆なのよ。特別な時にしか出さない、スペシャルなコーヒーだからね」

「え、すごい。良いんですか?」

「あなたの頑張ってる姿みてると、応援したくなっちゃうのよ。コーヒー飲んで、元気出してね」

 設楽は、涙が出そうなほど、うれしい気持ちになった。

 

 コーヒーの香りに癒されながら、設楽は、日報の入力作業に励む。

二十分ほどが経過し、彼女は作業を終え、ノートパソコンを閉じた。

「ふぅ、今日も終わった」 

 椅子の背もたれに上半身の体重を預け、大きく伸びをする。

軽く握った指先まで、気持ちよく伸びをすると、彼女は腕をだらりと両脇に降ろした。

 携帯用のポーチから、スマートフォンを取り出す。

LINEに、友人からメッセージがあった。

(週末の予定、明日の土曜日あいてる? ケーキ食べに行こうよ)

 高校時代から付き合いのある、河嶋美奈子だ。

オートバイの事故によるリハビリ期間中も、彼女を支えてくれていた、親友でもある。

(いいね。予定あけとく)

 空になったコーヒーカップを手に取り、彼女は椅子から立ちあがった。

カップを洗うために、給湯室に足を運んだ。

シンクの水栓を操作して水を流し、カップを洗う。

「お疲れ様。終わったの?」

 長野が、背後から声を掛けてきた。

「はい。美味しいコーヒー、ごちそうさまでした」

 設楽は、彼女に礼を言った。

「あとは片付けておくから、カップはそこに置いといていいよ」

「あ、すみません」

 設楽は、水を切ったコーヒーカップを、シンクの流し台に置いた。

「では、着替えてきます」

 彼女は長野に声を掛け、ロッカールームへ向かった。

 

 ロッカールームで私服に着替えた設楽は、足元にメモ用紙が落ちているのを見つけた。

それは先日、社員の中野から手渡されたもので、制服の胸ポケットに仕舞っていたものだ。

「いけない、すっかり忘れてた」

 メモ用紙を広げると、携帯電話の番号と、あまり上手ではない彼の似顔絵が書いてあった。

(面白い人だな)

メモ用紙をショルダーバッグの中に仕舞い、彼女はロッカーの扉を閉め、鍵を掛けた。

ロッカールームの扉を開くと、入れ違いに、長野が入室するところだった。

「設楽さん、お疲れ様。この後、すぐに帰るの?」

「え?」

「ちょっと、付き合わない?」

 

 設楽は長野に誘われ、女性客が多く集う居酒屋に、足を踏み入れた。

「いらっしゃ~い」

 店員が、元気な声で迎えてくれる。

「空いてる席、どうぞ~」

 二人は、入り口に近い空席に、向かい合って座った。

「設楽さん、ビールでいい?」

 長野は、慣れた手つきでメニューを広げた。

「あ、はい」

 長野は、右手を大きく挙げて店員を呼んだ。

「おにぃさーん!」

「あ、はーい! ご注文、承ります」

 威勢の良い男性店員が、携帯端末を持って席に近づいてきた。

「ビール、ジョッキで二つ、お願い」

 長野は右手の中指と人差し指を立て、店員に向かって言った。

「かぁしこまりましたー! ありがとうございますぅ!」

 

 二人がおしぼりで手を拭いている間に、なみなみとジョッキに注がれたビールが、テーブルの上に運ばれてきた。

「じゃあ設楽さん、とりあえず、乾杯しましょ」

「はい」

 二人はそれぞれ、ジョッキを掲げた。

「お疲れ様~」

 設楽は、ジョッキに口をつけて、口腔内を三割満たす程のビールを口に含み、飲み込んだ。

「美味しい」

 向かい合う長野は、ジョッキの三分の一程度を一気に喉に流し込んだ。

「美味しい! 久しぶりのビール、美味しい」

「いい飲みっぷりですね」

「主人が無くなってから、ずっと仕事と育児に追われてて。こんな美味しいビールを飲むの、久しぶりなのよ」

「そうだったんですね」

 酒が進むにつれ、長野の話題は、彼女の亡くなった主人の話題になった。

彼女は時おり涙ぐみながら、愛する夫の話を、止めどなく設楽に語った。

 

 居酒屋で会計を済ませる頃には、長野はすっかり酔いつぶれていた。

(まいったな・・・)

 設楽はやむを得ず、長野を自宅マンションへ連れて行くことにした。

店頭までタクシーを呼んでもらい、涼風で酔いを醒まそうとして待っている。

「お母さん!」

 不意に、女性の声がした。

「すみません、ご迷惑をお掛けしまして」

 二人の若い女性が、息を切らして、こちらに向かって駆け寄ってきた。

長野の娘たちが、彼女を迎えに来たのだ。

「設楽さん、ですよね。いつも、母がお世話になっています」

「いいえ、こちらこそ」

 タクシーが、ハザードランプを点灯させながら、こちらに近づいてくる。

「あとは、私たちが」

 彼女たちは、母親の体を両脇から支えながら、タクシーに乗り込んだ。

タクシーのドアが閉まると、二人は設楽に向かって頭を下げた。

 設楽は、右手を上げて、彼女たちを見送った。

 

 自宅マンションに帰り着いた設楽は、酔いの勢いもあって、メモ用紙に記された電話番号に、自身のスマートフォンから電話を掛けてみた。

 時刻は、午後十一時になろうとしていた。

数コールの後、相手が電話に出た。

「はい? もしもし」

 やや不機嫌な調子で、相手が電話にでる。

「あの、中野さん、ですか?」

「はぁ。あ、え、あっ? もしかして、設楽さん?」

 設楽の声を聞くなり、相手の声の調子が変わった。

「そうです、設楽です。驚きました?」

 笑いたい気持ちを押し殺して、設楽は言った。

「まだ、起きていらしたんですね」

「たった今、シャワー浴びて、出てきたところなんだ。スマホがブルっているから、まさかと思って慌ててしまって、脛をテーブルの脚にぶつけた」

 電話の向こうの中野は、ややテンション上がり気味の声で、そう言った。

「えー、ごめんなさい。私のせい?」

「いやいや、設楽さんの声聞いたら、痛みなんて吹き飛んだから」

「本当ですか?」

「うんうん。電話してくれて、嬉しいよ」

 設楽は、中野にドライブに誘われていた事を思い出した。

「そういえば、中野さん、車は何に乗ってるんですか?」

「え、ああ、カローラ。白いカローラ」

「最近のヤツですか?」

「そう、結構いい走りするんだよ」

「へえ、そうなんですか。いいなぁ」

「設楽さん、明日とかって、空いてないよね?」

 設楽は、友人の河嶋との約束を思い出した。

「あ、ごめんなさい。明日は友達と約束してて」

「あ、ごめん。今度、予定をあわせてドライブ行かない?」

「うん、と、考えておきます。夜遅くに電話してしまって、すみませんでした」

「いやいや、また、気が向いたら電話してよ」

「はい。じゃあ、おやすみなさい」

「あ、ああ、おやすみなさい。良い週末を」

「ありがとうございます」

 設楽は、スマートフォンを耳から離して、終話ボタンをタップした。

 

 ベッドの上で、設楽は仰向けに横たわり、スマートフォンを操作した。

LINEの河嶋のアイコンをタップし、電話を掛ける。

呼び出しのメロディが数秒間、鳴り響く。

「あーい!」

 スマートフォンのスピーカーから、女性の声が応答した。

「あ、みーな?」

 相手は、彼女の友人、河嶋美奈子だ。

「明日、どこで待ち合わせしようか」

「渋谷で良いかな?」

「青山行きたいけど、渋谷で大丈夫かな」

「じゃあ、原宿にしよう。表参道から歩いて」

「なに着ていくの」

「明日、起きてから決めようかな」

「何時にする? ちょっと寝坊したいし」

「あー、いい男いないかな。デートしたいな」

「え、私とじゃ不満なわけ」

「つーかさ、男運、なくねー。あたし達」

「みーな、この間、告られたって言ってたじゃん」

「あー、あいつダメだった」

「なんで?」

「いい年して、バイト生活してんだって」

「せっかく告られたのに」

「ダメダメ、安定収入のない男なんて、あたしが苦労する羽目になるから」

「意外と、シビアだね」

「もう、いい歳だからね。将来の事も、そろそろ考えないと」

「なーんか、悲しくなっちゃうよね」

 

 翌朝、ベッドの上で目覚めた設楽は、自身の身体に違和感を覚えた。

目が覚めた状態なのに、自分の意志で体を動かすことができない。

いわゆる“金縛り”の状態にあった。

(え? あれ)

 カーテン越しに、朝日が差し込んでいる。

目玉を動かして、周囲を確認する。

ベッドサイドの置時計が、彼女の視野に入った。

時計の針は、六時三十分を指していた。

 いつもなら、遅刻防止のために、目覚まし時計のアラームを設定して就寝するが、今日が休みの事もあり、アラームは設定していない。

 河嶋美奈子との待ち合わせの約束は、午前十一時だ。

十分な時間の猶予はある。

 こんな状況下にあるのは、今回が初めてではない。

そして、そんな日には、彼女の身辺に何かが起きる。

 彼女が学生時代に大きな事故に遭った朝も、こんな状況下にあった。

(イヤだな)

 一抹の不安が、彼女の脳裏を過った。

 

(カタカタ、カタカタ・・・)

設楽の耳元に、物音が聞こえてくる。

(え、なに?)

彼女は、注意深く、視線を動かして周囲を確認する。

(カタカタ、カタカタ・・・)

彼女の目玉が動く範囲で、音のする音源が何なのか、確認する事は出来ない。

 

 突然、大きな揺れが襲ってくる。

「じ、地震だー!」

 大きな声を発すると共に、設楽の身体は、原因不明の金縛りから解放された。

彼女は、すぐさまベッドから飛び起きた。

 目眩がする程の、大きな揺れだ。

地鳴りのような音が、周囲に轟いた。

 

 

 

 

・・・・・続く

 

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