橋本繁『韓国古代木簡の研究』吉川弘文館2014年11月
咸安・城山山城木簡釈文 p95
9号(14号) 木簡
「竹尸■牟レ干支稗一」
私註
咸安は、朝鮮半島の古代の加羅諸国のうち、安羅(『三国遺事』の阿羅加邪)が位置していた
場所で、遅くとも561年頃に新羅に吸収された。
現在の韓国慶尚南道咸安郡伽邪邑広井里山832番地の城山から出土した木簡群。
城山山城木簡は、安羅が新羅に滅ぼされた557年から561年をその上限とする。
p96 二三号(三号) 木簡 「■知上干支」
橋本繁『韓国出土木簡の世界』 2007年3月
咸安城山山城出土木簡 李鎔賢 (橋本繁訳) p225
木簡には、上干支という外位がみられる。中古期新羅の金石文をみると、上干支から支が
脱落して上干と表記されるようになるのは、おおよそ五四五年から五六一年の間と理解される。
p230転倒符と表記方法、書体
城山山城木簡は墨で書かれているため、石に刻まれた金石文資料ではみられなかった、
いくつかの事実を観察できる。第一に転倒符である。
九号「竹尸■牟レ干支稗一」
これは本来、「竹尸■干牟支稗一」と書かねばならないところを、誤って五番目の「牟」を
四番目の「干」より先に書いてしまった。そこで、転倒符を「牟」の右側下段、
「干」の右側上段に小さく表示して修正している。
p238 二三号木簡 「■知上干支」
『古代日本と古代朝鮮の文字文化交流』p55
2009年発見の新羅最古の金石文
韓国 浦項中城里新羅碑 「辛巳」年 501年
「喙部習智阿干支沙喙斯徳智阿干支~」 「干支」
『古代日本 文字の来た道』p51
城山山城木簡 「■知上干支」
「上干支」は、新羅の身分制のうち地方の在地首長に与えられた官位(外位)
私註
上臣大阿飡春秋等 上臣マカリダロ 内閣文庫本 巻25 22裏8
「上干支」は、内閣文庫本古訓から、「マカリカンキ」と読むことが可能です。
干支=旱岐=君(キシ)
任那などの小国の首長によく使われ、百済新羅等では臣下にも使用されます。
欽明天皇5年
曩者、印支彌未詳與阿鹵旱岐在時、爲新羅所逼而不得耕種。㖨國之函跛旱岐
安羅下(アルシ)旱岐大不孫・久取柔利・加羅上首位古殿奚・卒麻君(キシ)・斯二岐君(キシ)・
散半奚君(キシ)兒・多羅二首位訖乾智・子他旱岐・久嵯旱岐、仍赴百濟。
東京外国語大学論集第85号 2012
『古代・前期中世朝鮮語における名詞化』 伊藤英人 p89
~略~『梁書』新羅伝に見える「建牟羅(金城)」、『周書』百済伝の「【革+建】吉之(王)」、
『日本書紀』の「コニキシ(王)」の「建」 「【革+建】」 「コニ」を南豊鉉(2009)は後代のkʰɨn、
すなわち「大きい」の語幹に-n連体形がついた連体修飾的用法と見る。後代のkʰɨn kɨicʌ
(大きな王)に相当する。一方で南豊鉉(2009)は「族長」を意味する「干」、「韓」を-n連体形
の動名詞形と看做している(ibid.218-219)
筆者は古代語における「大きい」の語幹を{*kʌ-}[*kə] 「建」、「【革+建】」、「コニ」を
語幹に-n連体形のついた*kʌn[*kən]と見る。『日本書紀』の古訓は当然のことながら
甲乙を示さない片仮名表記であるが、後述の「己保利kəFori郡、評」などの例から推して
「コ」は乙類であったと考え得る。一方、「干」には{kʌ-}に完了接辞{-a-}が付き
さらに-n連体形のついた*kanを想定する。
p102 注12)「韓」が漢語形態素であることは伊藤英人(2012)で詳論した。
2012伊藤英人『朝鮮半島の漢字文化―中国圧への対処と日本語への影響―』
私註
朝鮮全羅南道の光州で出版された『千字文』(1575年光州 刊行 李基文氏が東京大学
文学部小倉文庫中より発見) 『千字文』三本影印附解題・索引、韓国檀国大学校東洋学
研究所1973及び藤本幸夫氏が、大東急記念文庫で発見した上記『千字文』より、やや
刊行年の古い光州地方での刊本の『千字文』。(藤本幸夫「朝鮮版『千字文』の系統」
『朝鮮学報』94 1980)
『千字文』にハングルの音訓の付されたのは、官版よりはるかに早く、遅くとも
十五世紀末頃には存在したであろうと考える。ところで、上記二種の光州地方刊『千字文』
の「王」の訓に、kɨicʌとkicʰʌがある。官版系統の流布本ではnimkɨm(現代語 imkɨm)
である。ここで興味あることは、光州はかつて百済の領内にあり、このkɨicʌとkicʰʌの
二語が、『日本書紀』の百済関係の記事で「王」が「キシ」と読まれているのに酷似し、
百済語であろうと推量できる。
藤本幸夫 『古代朝鮮の言語と文字文化』(昭和63年)p192、p193を要約
つづく