ワタクシはビザも含めて5月頃にフィリピンに移住しようと思っていた、しかしジョイが移住に反対していた事もあり少し間を置くかと考えた、そこにフィリピンのママからパパが癌であるという知らせが入ってきたがそれも手術しないで薬治療にするのだと言う、日本なら早期発見なら手術して癌を取り除くというのが当たり前で薬治療だと既に手遅れだと宣告を受けたのに等しい事を皆が知っている、ママからの知らせを聞きワタクシはジョイにその事を知っているか聞く事ができなかった、「これはフィリピン行きを急がなければならない」と4月にフィリピンに移住する事を決めた、母親の介護を嫌がらずやってくれたジョイをパパが長くないなら少しでも早く返してやるべきだと思ったからだ。

 

本当ならジョイを先行して帰すことも考えたが荷物の整理やフィリピンに送るものの区別がワタクシではできない、また海外移住となると国内の引越しと違い95%を捨てていかなければならない、最後の最後までゴミ出しにかかりバリックバヤンボックス4個に荷物まとめて送り出した、フィリピンのバハイ(家)に着くとパパは意外と元気そうだったので安心したが実際はそうではなく愛する娘が帰ってきたので無理に元気に振舞っていたのだ、パパの容態は日々悪くなっていた、もちろん病院にも行き薬は飲むが良くなる気配を見せない。

 

ブラカンにいるパパの姉さんがいい祈祷師がいるので一週間ブラカンに来いと言われママが付き添って向かった、ブラカンまでここから3時間ほどかかる、ワタクシは当然ブラカンの姉さんの家に泊まると思っていたがパパたちはその日に帰って来て翌日にまたブラカンに向かうを5日間繰り返したが効果は全くなかった、人間が持っている超自然的な力をワタクシは肯定も否定はしない、だが自然に考えて重病人をあちらこちらに移動させるのはどうだろうか、それだけ藁おも掴みたいファミリーの気持ちなのだろうが奇跡は簡単には起きるものではなかった。

 

長男をドラッグの更生施設に入れなければならなかったのも気持ち的に萎えさせっていたのだろう、ベットに寝ているパパを見に行くとワタクシの手を取り訴えるような目で見る、彼はこう言っていた「こんな家庭で恥ずかしい、本当にすまない、ファミリーの面倒を見てくれて有難う、図々しいがファミリーの事を宜しくお願いします」言葉にはしないがパパはワタクシの心に目で訴えていた、ワタクシは「ワラン プロブレモ(問題ないから)」とパパの肩をそっと撫ぜた、毎日聞こえるパパの嗚咽、苦しく辛い日々がパパにもファミリーにも続いた、パパの調子の体を調べにママが付き添い病院にいったらしが待てど暮らせど夜の10時になっても2人は帰ってこない、ママからジョイにパパがジョイに逢いたいので来てくれと連絡があった、病状に変化があったのではとジョイとワタクシとティタが向かった病院はキリノ メモリアル メディカル センターで歩いても7.8分の距離だ、そもそもママ達はこの大きな病院が1番近いと選んだにすぎなかったにだろうがこれがワタクシをビビらせる事になる。

 

フィリピンで初めての病院だがかなり大きい、入り口でガードマンに腕にスタンプを押され中に入ると個室の待合室に入って行く、中に入るとパパがベットに横たわって点滴を受けていたがママから話しを聞くと6時間も待たされまだ検査も受けてないらしい、数十分後に男の看護師が来て今日は診断出来ないので一泊して明日の早くに検査をするするらしい、パパを車椅子に乗せて看護師が病室まで案内してくれる途中にemergencyの文字がある場所を通ったが仕切りも何もなくベットが50程ありほぼ満杯状態、その周りを数人の医師らしい人が2.3人と看護師が忙しそうに動き回っていた、そう言えばフィリピンの救急車をマニラやケソンシティーでは頻繁に見かけるが人口が多い分アクシデントが多いのかもしれない、またemergencyの看板を掲げた病院も見かけるが都会には24時間体制の病院が意外と多いが専門医師がいない場合がありそうなので応急処置だけのところが多そうだ、人々が大病院に集まるのは小さな病院では専門医師がいないからだと思う。

 

大きな病院なので7.8分近くかかり病室に着くとそこは8畳位ある個室だった、トイレ、シャワー、テレビ、エアコン、長椅子まであり7階という事でケソンシティーのクバオからワタクシ達がすんでいるプロジェクト4まで見渡せるロケーションのいいホテル並みの個室、ワタクシは「こ、これは高いかも」と思ったが明日の検査が終わればパパ達は帰って来るだろうとタカをくくっていた、深夜になっていたので1時間程話しをしてパパと付き添いのママを残して家に帰る事に、病院の建物から出ると5個のテントが併設されていて70.80人程の人が椅子に腰掛けている、「この人達は何なの?」とジョイに聞くと診察を待っている人達だという、緊急ではないが仕事で昼間にこれない人達が深夜にも関わらず順番待ちしているだという、全員の診察が終わるのは一体何時になるのやら、それともそのまま次の日の診察が継続行われのかもしれない。

 

ジョイとワタクシは次の日も病院に行ったがパパは2.3日入院して検査の結果を待つという事らしい、翌日からワタクシは風邪をこじらせ咳が止まらなくなったのでジョイと隣りのティタが二人で行くようになった、4日目の夜だった、帰って来たジョイの目は真っ赤になり涙を流していた、「パパは半年生きられないだろう」と医師から宣告を受けたのだ、ワタクシはジョイの手を取り肩を抱き寄せてやるのが精一杯だった、この時頭にあったのは半年という事だ、パパがもし病院に半年間入院する可能性が出てきたという事はその入院費が当然発生する、パパは保険に入ってないので当然実費になるのだが金額は次の日に分かった、どうやらこの病院は5日ずつ清算らしいがトータルで53000ペソだった、「もし、半年入院ならと一体幾らになるのだ」と考えると急にめまいがしてきた。

 

53000ペソ、内訳は細かく医師、結果、薬、等々に分かれている、これはバランガイから5000ペソ負担してもらえての金額で実際は58000ペソ、1か月も入院すれとなれば30万ペソ以上になる更に病院で使う一部の薬はドラッグで購入しなければならずプラスすれば40万ペソにもなってしまうかもしれない、「これはマズイ〜」と1.2か月での入院で済むならまだしもそれ以上になると日本に置いてある予備資金を投入しても足らなくなってしまうかもしれない、万が一の事を考えてワタクシはジョイに話しをした、

ワタクシ「ジョイ、このままパパが病院に入っているとお金が大変になるだろ、1人で日本に帰って仕事して送金するよ」

 

ジョイ「あなたエスケイプするなの?」

 

ワタクシ「そうじゃないよ、病院や薬のお金が大変だろ、分からないの」

ジョイはしばらく黙った後に「あ、あなたの言う通りな」

1.2週間様子を見てワタクシ1人が日本に帰る事でジョイは自分1人がフィリピンに置いていかれてワタクシがもう帰ってこないのだと不安を強く抱いたのだろうが実際にお金の問題の事になると彼女も黙るしかなかった、ワタクシはジョイを信頼してフィリピンでも彼女の口座に殆どのお金を預けていたし日本の銀行や証券会社に預けてある残高をいつも見せていた、だが今まで銀行にお金を蓄える事を1度もした事のない彼女は貯金の意味を理解して無かった、生まれてから1度も貯金などした事なかったのだから無理はないかもしれないが「現実にお金はあるだろう」の考えが底辺にあり日本にいる時から少しずつ教えたものの完全に理解したとは言えなかった、もちろんワタクシも不安でいっぱいだった、この時慰めて下さったのがくまパパさんとコードKさんのお二人だった、「なるようにしかならないのが人生」を信条にしているワタクシでも支えてくれる人達の言葉は心に染みた、お二方あの節は本当に有難うございました。

 

日本に仕事をする為に帰る覚悟は出来たが3日後にパパは病院から帰って来たが退院したというのに逆に痩せ衰え歩く事も出来なくなってしまっていた、元ワルのマイケルが車椅子を用意してくれたがトイレに行くのに車椅子が通れなく抱えて行かなければならないがパパは180センチで100キロを超える大男だから容易ではない、マイケルと同じ元ワルで近所に住むエルウィンが手伝ってくれてやっとトイレを済ませる事が出来たが毎回毎回では大変とタライをパパの部屋に容易した、パパを運ぶ時にジョイがワタクシの腰を心配してくれたがジョイが母親にしてくれた介護に比べれば全く気にならなかった、寝ている間幾度となくパパの嗚咽する声が家中に響く、パパが苦しがっているのが分かりファミリー皆の心が痛くなる。

 

パパが病院から出て来たのはお金がもったいないと考えていたからだ、「残り少ない自分の為にお金を使うより残されたファミリーの為に使って欲しい」とワタクシに訴え掛けているのだ、ワタクシはパパの気持ちを十分理解出来たのはパパと逆の立場ならワタクシも同じ事をしたからに他ならない、パパは「誕生日までは生きられない」と言っていたが退院して2日後にその誕生日がやって来た、ご存知の通りフィリピンでは誕生日は特別な日で皆で盛り上がるのですが、この日は朝からジョイと妹のティナが子供達とケーキやピザを買ってきたりチキンの唐揚げやスパゲッティを作ったりしていましたがパパはピザを一口食べるのが精一杯だったのです、そしてこの日で58歳になったパパですが残念ながらこれが最期の誕生日となってしまったのでした。

 

 

次回に続きます、いつもご訪問頂きまして心より感謝いたします。