次の日の朝、一組の夫婦が家にやって来たが彼等はパパの従兄弟だという、50前後の男性はシンガポールでエンジニアの仕事をしていて帰国したその足で空港から直接来てくれたのだ、彼は宣教師の資格も持っていてパパの為にワタクシを含むファミリーと共に10分以上の祈りを捧げてくれた、更に1時間後にケソンシティー近辺に住む近隣パパの叔父さん、叔母さん、従兄弟達が10人程やって来た、皆、最期のお別れにやって来たのだ、パパはイロコスビガンの出身だがこの周辺にもこれだけの親族がいるとは驚きだ、フィリピンの大ファミリーとはこういう物なのかと感心させられたが、これもパパの人徳のなせる業という事を後でワタクシは知る事になる。
そして次の日、ワタクシとジョイが3時間程して帰って来るとパパがママと妹のティナに伴われ病院に向かったらしい、ワタクシたちも急いで病院に向かうと入り口でティナが待っていて案内してくれたがパパはICU(集中治療室)で意識もなく横たわっていた、ジョイは「パパー、パパー」とパパの腕を掴みながら泣いた、だが、この時はパパのまだ生きていた、危篤だと聞きつけマイケルや隣のティタそして近所の住人が5.6人来てくれた、実はこの日に岩崎先生と久し振りの再会の予定だったのだが先生も予定がズレてワタクシもこういった事情でお会いするチャンスを逃してしまった、だが病院はパパのこんな状況にも関わらずレントゲンとCTスキャンを取った、緊急に運ばれた時に原因究明してどう治療すればいいかを判断する為に日本でもよくやる事だがパパは数日前まで「この病院に入院していたのだから必要ないだろう」とワタクシは思ったしジョイやママもそう思ったらしい、明らかに検査費を稼ぐ為にやっているようにしか見えない、前回の入院時も家族の意向を聞かないで勝手に大きな個室にしたり無駄な検査や薬を与えていた気がしたが今回も同じだと思わざる得なかった。
この先どうなるか分からないのでママとティナが残り後は自宅待機で引き上げたが深夜になりジョイの弟のジャンジャンが大泣きしながらワタクシの二階の部屋に飛び込んで来た「パパが息をしてないー、死んだよー」皆がこの時が来るのを覚悟したはずだがどこの国の人間だろうと身内が亡くなるのは哀しいものなのだ、ママから連絡が入り自分だけ残りパパの遺体は葬儀屋に持って行くので来なくていいと連絡が入った、気丈に振る舞っていたジョイだが彼女の頬には大粒の涙が流れていた、パパに取って4人の子供達の中でジョイは最愛の娘だがジョイに取っても最愛のパパなのだ、その悲しみはワタクシが思う以上に深いものだろう。
朝になりマイケルの車でジョイとワタクシは葬儀屋に向かう、その途中メトロバンクに寄りジョイにカードで3万ペソを下ろさせた、いや実際は3万ペソが1日で下ろせるリミットのようだ、実はケソンシティーの支店は一つしかなくそこでなら預金から幾らでも下ろせるらしいのだが、あちらこちらにあるメトロバンクは支店ではなく出張所らしく、問題がある場合は支店まで出向かなくてはならないのだ、3万ペソを下ろし葬儀屋に着いたワタクシ達は店の奥に通され打ち合わせが始まった、先ずは棺桶だ、これはピンからキリまであるらしいが13000ペソから23000ペソの物がお勧めだと言った後でパパは身長が有り23000から30000ペソの物になってしまうと言い出した、確かに飾ってある棺桶をみるとちいさく185センチ位有るパパではかなり窮屈そうだ、仕方がないので23000ペソのものをチョイス、パパの遺体の防腐処理や更に霊前でのキャンドルやカーテン等々のレンタル代、焼場までの霊柩車と同行するバスなどが32000ペソ、合計55000ペソとなった、焼場、これはパパの遺言で火葬にして故郷のイロコスビガンに墓に入れるならそこに埋めて欲しいとお願いされたからだ。
マイケルが帰りの車の中でワタクシが葬儀屋に一緒に来ない方がもっと安く出来たと思うと言っていた、ジョイも同調していた、成る程日本人が一緒だと高く吹っ掛けて来るのは間違いないかもしれないが何事も勉強でフィリピンでの葬儀での大体を知る事が出来たのだからと自己納得した、家に帰り用無しのワタクシは夜に備えて2階の部屋で寝る事にした、1時間も寝ていると下で「どーーーん、どーーーん!!!!!」と何度も何かを壊す音が聞こえてくる、暫くして降りて行くと応接間とキッチンの敷居が綺麗に取り外されていた、更キッチンには紙コップとプラスチックコップ、オツマミが山のように積まれていた、フィリピンの葬儀は来てくれた人に食事を振る舞うのが礼儀でそれが一週間続くと聞いていたが地域によって少しずつ違うようだ、この日は水曜日だが土曜日までの4日間が弔問客がやって来る日で日曜日にはパパの遺体を焼場に連れて行くというスケジュール、5時までに棺も運び込まれ葬儀屋の飾り付けも終了し家の外にはテントが2つ貼られた、そしていつの間にかビンゴとカードが始まり30人程の人が集まっていた。
夜6時にブラカンからパパの姉さんが女性のベストフレンドとやって来た、この姉さんは汚いのが大嫌いな人だから此処にやって来たのも10年以上振りらしい、ブラカンの家の中は実に綺麗にしてあるだけに最終日までこの汚い家に泊まるのはさぞ苦痛だろう、7時を過ぎると近所に住むママの一族や近所の人達が続々とやって来た、不思議な事に飾られた棺のパパの頭側にビーバーが足側にジャスティンがパパを守るように座っていた、この日は客は来ても食事は出さない、外で博打をやっている連中にもレンタルのミネラルウオーターとソフトドリンクとオツマミを出すだけで「酒を飲みたい奴は自分で買え」のスタイルだ、いつもは「ワラン ペラ(金がない)」と言っている連中が博打となるとどういう訳か金を持って集まってくる、賭場は毎日朝の7時まで続き10時から開帳となる。
そして最終日となる土曜日になると2メートル50センチ位しか幅の無い狭い路地が100人以上の人で埋まった、弔問客も休みという事で次々にやって来た、パパの弟のティトがある1人の身なりの良いフィリピン人を連れてきた、何でもカナダのパパの兄弟の長女のジョイのティタの恋人らしい、「えっ、カナダのティタって旦那いるだろ?」と思ったが2人の新居も今建築中らしい、後でジョイから聞いたがティタの旦那は浮気ばかりするので別れる予定らしい、三菱関係の合弁の会社の社長をやっているという話しで金は有りそうだ、ナイキのスニーカーに時計も金キラしてる、ワタクシが歳を聞くと64歳だというので「若いですね〜、64歳には見えないですよ」とついオベンチャラを言うとニコニコして喜んでいた、カナダのティタは年末にやって来て一緒にパパの遺骨を持ってイロコスビガンに行く予定なのでタカログ語のオベンチャラをそれまでに覚えなければならないと思ったが香典は5000ペソ置いていったらしい、「10000ペソ置いてけよ〜」と思ったワタクシだった。
夜になると更に弔問客が訪れて誰が誰やら分からないが状況になってきたが、この日は最終日という事で弔問客には食事をだした、そこにジョイの日本でのタレント時代の親友のカレンが自分の子供2人を含む10人の家族を連れて来たから大変だ、ついにワタクシの部屋も子供達に明け渡すことになってしまった、カレンは結婚していないが子供2人はワタクシも知っている日本人との間に出来て家も車も買ってもらていて1年に2回日本にもいっている、2人共認知してもらい私立の学校に行き家に来た時も全て英語で話していた、ワタクシがタバコに火を付けようとすると「ワオー、プリーズ、ノー スモーキング」みたいな事を8歳の子供に言われスゴスゴと部屋を出てベランダで寂しくタバコを吸うオッサンの姿があったのだ、一見、この子達は生意気なガキに思えるがワタクシ達の子供のリアムと楽しく遊ぶ姿を見ているとそうで無い事が分かってきた、この子達をみているとリアムの英語力はまだまだで遠く及ばない、やはり教育は重要だ、日本にいる時から子供達の教育の事は考えていたがフィリピンに限らずどこの国でも子供に多少のハイレベルの教育をするしないで将来が変わってしまう事が十分にあり得る、このファミリーの子供達の将来はこのまま行けば暗い物になってしまうかもしれない、ワタクシも色々と考えさせられる夜となった。
日曜日にの朝になり下に降りていくと女性ホルモンをムンムンと散らせつかせるお姉さんがジョイからペソを受け取ってるではないか、このお姉さんは水曜に弔問に来て終るとすぐさま博打をやり始め毎日やって来るギャンブル狂いのお姉さんだ、この日の前日に彼女が麻雀をしているのをワタクシは後ろから見ていた、フィリピンの麻雀は日本とかなり変わっている、フィリピーナはパイがでかいのも多いがフィリピンでは牌(パイ)もデカイのだ、一つの大きさが日本の3.4倍はある、配牌も8牌ずつもってくるし字牌は全て自分のところに晒していく、後ろから見てお姉さんの下手さ加減に呆れているとお姉さんはワタクシに自分の牌をツモれと言う、パイをツモれと言う事は自分のパイをツモれと言って誘っているのかと思ったが周りに20人位いるので普通に牌をツモってきたが全然いいツモが来ない、結局、お姉さんは当然の事のように大敗し今度はビンゴの向かって行った、そして日曜日の朝までお姉さんは負け続け4日間で総額10万ペソやられたのだった。
フィリピンの低所得者が多く住むこの街だが一角に中流階級が住む所がある、ここにはバランガイ.キャプテンや元ワルから脱出しジョイの従姉妹と結婚したマイケル、そしてこのお姉さんも旦那が会社の経営者で更に娘が金持ちの日本人と結婚しいい家に住んでいる1人なのだが負けた分の支払いに3万ペソが足りなくジョイに明日返すので貸してくれと言ってきたのだ、ここでは多くのフィリピン人がローンズ.レイスリーにやって来るがこのお姉さんなら問題なしと貸し出しし翌日無事に3万500ペソで帰ってきたのだった、お姉さんの娘の話しをしたが実は娘は妊娠でフィリピンに里帰り中だ、なかなかの美形だが問題有りなのだが話しが長くなるのでそれは別の機会に話しさせて頂こうと思う。
出棺まえに牧師が来て最後のお別れの祈りを捧げいよいよ出棺という時にワタクシの隣にいたパパの弟で隣の家に住むティトがいきなり大泣きし始めた、パパの兄弟の中でいつもパパといることが多かったティトだけに兄弟愛は深い、ワタクシとティタで肩を支えてティトと共に霊柩車まで歩いていく、霊柩車にパパの遺体を積み込むと親戚や近所の親しい人達総勢50人が小型のバス2台と乗用車3台、モーターサイクルに分乗して焼場に向かう、霊柩車がもちろん先頭だがモーターサイクルの誘導員が2人いて皆を先導してくれる、これも料金に含まれているようだ、ところどころ空いている道路は反対車線も走るが警察官がいても何も言わないので葬儀の時は許されているのかもしれない、30分ほどして焼場に到着し50人が入れる待合室に通されるがワタクシには疑問が一つあった、それは「棺桶どうするの?」という事だ、フィリピンの事をご存知の方は普通は棺桶ごと土葬にするので問題無いのだが火葬となれば日本のように棺桶ごと燃やしてしまうのかどうか、或いは遺体だけ焼いた場合に残った棺桶をどうするかという疑問が有ったのだが結局棺桶は国に無償で移譲する事になったらしい。
待合室に面した焼場で親族はパパと最期のお別れをしたがジョイは待合室で涙を流して動かなかった、ワタクシはジョイに「お母さんが死んだ時にお母さんは心の中に生きているって言っただろう、パパもおなじだよ、2人だけでなく皆んなの心の中でパパは生き続けるんだよ」ジョイは「ウン」と頷いてワタクシの肩にもたれかかった、焼き終わるまでの間に家から持ってきた弁当とジュースを配り食事となった、ここら辺は日本と同じようだ、焼きあがるのは一時間ほどで日本よりも早く焼きあがり骨もかなり細かい、係員が骨ツボに骨を納めたあとビニール袋に入った骨を出した、その骨は緑色になっており係員の話しだと見るのは初めてだが触ると幸運を招くという話しがあるらしい、ワタクシとジョイ、そしてブラカンのティタが触ったが果たして幸運は訪れるのだろうか、そん後、納骨が無いので骨ツボを持って皆が引き上げた。
ワタクシがこの期間に気になっていた事が幾つかあった、一つは病院に入院した始めの5日間の料金はワタクシが出したが残り3日間と緊急で病院に行った時からパパが亡くなるまでの2日間の病院の費用は「一体どうしたのだろう」という事だ、ジョイに聞くと「ママが払った」らしい、スカンピンのはずの「ママがどうして払えたの?」実はパパが入院中と家にいた時から近場の親戚や友人達が次々にやって来て「昔パパに世話になった」とパパが健在な時に助けてもらった人々が恩義を感じ3千ペソ、5千ペソとお金を置いていったのだ、それは葬儀中にも続き最終的に10数万ペソがママの手元に入ってきて病院の残りの支払いを行っていたのだった、更に家での葬儀中に近所に住む1人の老婆が皿を洗ったりゴミを捨てたりと甲斐甲斐しく頼みもしないのに働いていた、この老婆は娘を無くし16歳の孫娘と二人で暮らしている年金生活者なのだが娘は学校に行かずにワタクシ達の家で2歳のキムのベビーシッターをしている、貧しい生活をしているこの老婆にパパは自分にお金がないときでも少しずつお金を分け与えていたのだ、お金に余裕が有るなら分かるが自分が余裕も無いのに分け与える行為はワタクシを含めた今の日本人には理解しがたいものかもしれない、昔ワルだったマイケルとエルウィンと後二人の仲間にもパパは「仕事をしっかりしろ」とモーターサイクルや車のライセンスを取るお金を渡したらしい、ジョイから次々と聞くパパの善行の数々を聞き病院の支払いばかりを気にしていたワタクシは自分の人間の小いささに恥ずかしくなってしまった。
パパは早く天国へ召される事でワタクシを金銭的にも精神的にも楽にしようとしてくれたのかもしれない、残されたジョイとワタクシはパパの意志を受け継ぎその意志を子供達に伝えていかなければならないのだ、そしてワタクシは亡くなったパパと愛するジョイとそのファミリーの為にこのフィリピンの地で生きていく事を再度誓ったのだった。
2016 6/14 エドウアルド.P.キニョオーラ 享年58歳に捧ぐ
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