マリンタワー フィリピーナと僕といつも母さん byレイスリー -24ページ目
ワタクシの母親は昭和5年生まれだ、現在85歳、戦時中は日本の植民地であった台湾で女学生時代を送ったらしい、戦争中でありながら余り台湾は戦火が拡がらなかった、しかし日中戦争終結後に統治権を放棄し国民党が統治するに当たり日本人は財産を殆ど没収され日本に帰らされた、母親の家族ももちろん例外ではなかった。



日本に帰った家族はワタクシの母親そして両親、兄二人が当時は日本本土にいて二人共に早稲田大学に在学し長男は学徒出陣で沖縄で特攻隊に行く予定日の数日前に戦争が終結し生き残った、帰った家族は親族の家を渡り歩いたが、離れて暮らしていた次兄が検事局に就職する事が出来て神奈川県の平塚で同居する事になった、母親も勧業銀行に就職出来て兄と共に家計を助け戦後の貧困時代を協力しあい切り抜けていった、長男は東京で新聞社に就職し仕送りした、家族みんなが助け合う、焼け野原の日本は物と職がなく母親やその家族だけでなく日本人全体が戦争の爪痕で苦しい時期だったらしい、だが家族みんなが助け合うそんな家族愛に満ちた時代でもあった、そしてこの時の家族で助け合い明るい家庭を作りたいというのが母親の生涯を通じての信念の一つだった思う。


そんな母親が恋したのが同じ銀行に勤めていた男性こそが父親だった、だが父親は3人の子供がいる妻帯者、しかも父親は九州の小倉に転勤となった、母親はそんな父親を小倉まで追いかけた、或いは父親が呼び寄せたのかは今となってはよく解らない、とにかく前妻は子供3人を置いて去って行った、前妻の気持ちを考えると気の毒に思うし母親も罪の意識に苛まれたかもしれない、いつも人の事を気にする母親がこの時ばかりは違っていたようだ、初恋で初めての男性だった父親に母親に取っても恋は盲目だったのだろう、もちろん兄弟3人は母親が継母という事を知っていたようだが、この事をワタクシが知ったのは今から5年ほど前の事だった、だが母親は3人の兄弟も本当の子供のように接していた、長男が就職先の神戸で手術する事になると1週間泊まり込み看病しに行った、長女が帰りが遅いと何度もケンカして本気で案じていた、次男の嫁さんが精神を病み母親に悪態をついても次男の事を何度も涙を流して心配していた、腹違いの子供たちだが自分の子供のように接しようと頑張った。


小倉でワタクシが誕生し数ヶ月後に愛媛の松山に転勤、7年して三重県の津に更に3年して横浜にやって来た、その間に長男は神戸大学を卒業後はサラリーマンを数年して弁護士を目指したが果たせず自営の経営コンサルタントを経てとある大学の教授になった、長女は見合い結婚をし一男一女をもうけた、次男は世界的な上場会社の重役にまでになって、子会社の社長を経て去年、退職した、松山にいるときは交通の便は悪かったが近所付き合いもあり家の周りは畑に囲まれのんびりと時が流れる環境だった、兄弟4人と母親が一緒に楽しくちゃぶ台を囲み食事をしたのが今でも思い出される、母親の脳裏にはいつも家族と楽しく暮らしていた一番好きな場所で一番幸せな時代だったとして残っていたのかもしれない。


母親に取って4兄弟のうちワタクシだけが腹を痛めて生まれた子供だが、一番心配させ迷惑をかけたのがワタクシだった、二人の兄に比べて学校の成績が良かったわけでもなく、名のある会社に入ったわけでもない、親孝行もせずに事業に失敗し女に狂い家まで売り飛ばしてしまった、それでも母親はワタクシを見捨てるどころか励まし続けた、父親が痴呆症になり家族の認識も出来なくなった時も甲斐甲斐しく世話をしていた、父親はワタクシと同じで遊びが好きだった、子供の頃に金庫の鍵を閉めないで麻雀に行ってしまい同じ銀行の人がわざわざ家に来た事があった、当時は携帯電話どころか電話が家にあるのも珍しい時代、ましてや銀行員はお堅い仕事と思われていたが父親もなかなかの遊び人だ、女遊びをしたかは知らないがギャンブルや飲み歩いたりして夜は帰りがいつも遅かった、そして父親の遊び好きの血を一番受け継いでしまったワタクシのようなバカタレの息子を持ってしまった事が母親に取っては不幸だった。


苦労をかけた嫁さんが出ていき、二人いる子供たちも家を出てワタクシと二人きりになり母親も「寂しいねー」と盛んに言うようになった、そんな中約2年前にワタクシがフィリピーナのジョイと結婚したいと姉と母親に言うと二人共に反対した、姉に至ってはワタクシと絶縁すると宣言する始末、二人の兄達もインタネットから引っ張り出した悪い部分を母親にファックスしたり手紙を送ってきた、元々家に来ないで親父の法事にしか集まらない兄弟だがこの時ばかりひ声を揃えて大反対だ、理由は自分たちに迷惑をかけて欲しくないという事だった、そして母親に盛んに施設に入るように勧めた、母親とワタクシを離れさせようとした事、フィリピン人と言うだけで悪として反対した事、当時はワタクシも激怒したがこれに母親も巻き込んでしまった、兄弟達はワタクシに味方するなら連絡を取らないでほしいと母親に手紙を送ってきた、兄の嫁は「二度と電話をしないで下さい!」と母親からの電話を切りさすがの母親も激怒した。


ワタクシは一昨年の12月にジョイをフィリピンから呼び寄せたが母親は暖かく迎え入れてくれ、ジョイと一緒に買い物に行きコートを買ってやったり自分のブローチやネックレスをジョイにプレゼントした、ジョイの友達が遊びに来たりした時は賑やかが好きな母親は楽しそうに笑顔を見せていた、だが3週間たちジョイがフィリピンに帰り2月のある日に歩行中に背骨をひねり骨折してしまい歩くのに補助が必要になり遠出が出来なくなってしまった、そして4月に再来日したジョイと結婚して3人で楽しくやっていこうという矢先の6月ワタクシが泊まり込みの仕事中パニックになったジョイから電話があった、よく解らないが母親が救急車で運ばれる事になってしまったと言うのだ、夜だというのにそんな時間に来るはずのない叔母が来たと勘違いし急いで追いかけマンションの入り口にある三段しかない階段で転び骨折してしまったのだった。


翌日の朝ジョイと一緒に病院に向かった、病室に入ると母親が寝ている、「母さん来たよ、大丈夫?」と声をかけたが起きた母親は既にいつもの母親ではなかった、骨を折ったショックで気が動転したなのか話がつながらない、医師の話だと「骨折した部分を手術しないと歩けなくなる」と言われ2日後に手術をした、入院している間毎日行ったが母親のボケは良くなるどころか悪化の一途だった、誰かれなしに「出して下さい、家に返して下さい、お願いします」とベッドの上で土下座をする始末、慣れない病院で知らない看護師は朝晩毎日コロコロ代わる、周りの環境が変わり一気に痴呆が進んでしまう人は多いらしい、3週間たち医師に相談し退院させることになった、家に帰れば精神的にも少しは落ち着くのではと期待したが、その夜に早くもその期待は打ち砕かれた。



次回に続きます、いつものご訪問誠に有り難う御座います。