病院に着きワタクシは治療室の外で待つ事になった、2時間ほどするとドクターが出てきた治療室に通され、
ドクター「心臓は息子サンが心臓マッサージしたからでしょうか動きました」
ワタクシ「本当ですか?」
ドクター「ただこのレントゲン写真を見ていただくとお分かりになると思うのですが、脳の周りがぼやけてますよねえ、こうなると意識はまず回復しないと思います」
ドクターの言おうとした事はワタクシには理解出来ていた、医療の知識がたくさんあるわけではないが心臓が動き出しても30分以上止まっていると脳の復活は難しい事は知っていた、「脳死」母親は完全な脳死ではないようだが意識が回復する見込みはまずない、心臓が動き出したといっても危篤状態には何ら変わりはないのだ、それからしばらくして母親はICUと言われる病室に運ばれた。
そこに警察官が二人やってきた、病院に心肺停止で緊急で運ばれる場合は事件性がないか警察が調べる事になっている、以前働いている時に同僚が自宅で亡くなった時も同じように警察が調べたのを聞いていたワタクシは事情を詳しく話した、そして家で現場を見たいと言うので母親の事を介護仕に頼んで彼らの車に同乗して家に戻った、家に着くとワタクシとジョイに状況を根掘り葉掘り聞いて現場を写真に納めて「こんな時に申し訳ないです」と恐縮しながら帰っていった、だが後でワタクシの怒りに火がつく事になった。
次の日から毎日病院に見舞いに行き始めた、初日ICUのドクターから親族や友人に連絡をして合わせておく事を勧められた、そして次に心臓が止まった場合に薬の投与や電気ショックを行うかを尋ねられワタクシは答えに窮した、確かに素人のワタクシの目から見ても母親が長くないのは解るが昨日の今日では簡単に出せる答えではない、ドクターは「解りました、取り敢えず処置はおこないますので、気持ちの整理がついたら仰って下さい」と保留した、次の日から近くに住む叔母や従姉、ワタクシの二人の息子、母親の友人がやって来てくれ、特に長男は毎日見舞いにやって来てくれた、そしてワタクシは迷ったがジョイ(フィリピーナ)との結婚を大反対し仲違いして縁を切った姉に電話をした、最後位は合わせてやろうと思ったのだが、姉の考えは全く変わっていなかった。
電話するといきなり「だから施設に入れとけばよかったのよ」となじられた、姉には人の情というのが理解出来ないのか、痴呆であろうが無かろうが母親は人一倍寂しがりやで親しい親族と一緒にいたいのは決まっている、いやワタクシの母親だけではない、自分の腹を痛めた子供とどうなろうと最後まで一緒にいたいというのが人の情というものだろう、それがワタクシの兄弟たちは全く理解出来ていない、姉に取っては所詮はワタクシの母親は単なる育ての親でしかなかったのかもしれない、だが今更言い争ってもしょうがないと姉の話を遮り「来たいなら来ればいい」と場所と病院名を教えて電話を切った。
翌日の朝に病院から危篤との電話が入りジョイと一緒にタクシーで病院に駆けつけた、病室には姉がいた、ジョイとの初対面だがお互いに軽く会釈しただけで姉は全く話さない、前日の電話で「母親のオムツを代えたり大便の処理をしてくれてるのはあなたの嫌いなフィリピン人だよ、もし会うような事があったら有り難うの一言でも言うのが人間として当たり前だろう」とワタクシは姉に言った、姉は3時間ほどいたが一言もジョイに労いの言葉どころか話し掛ける事もなかった、姉の帰りがけにワタクシは「葬儀には呼ばないからね、叔母さんと喧嘩になるから」近くに住んでいる叔母は姉や兄弟たちの事を昔から知っている、その兄弟たちがジョイと結婚したワタクシと一緒にいる事で母親に冷たい態度を取った事を激怒していた、姉を呼べば叔母が嫌な気持ちになるだろう、それにワタクシも来てほしくなかった、今回、電話し会ってみて「もう二度と会うことはない」だろうと思った、ただ今は怒ってはいない、真っ当に狭い世界を見てきた兄弟たちとはワタクシはあまりにも違う人生を歩いてきてしまった、それはお互いに相入れない道なのだと今は思っている。
危ないと思われた母親はこの時は持ちこたえた、家にジョイと帰り食事をするとき椅子に座ってユッタリと痴呆になった母親が食べているシーンを思いだしつい込み上げて涙が流れた、成人になって以降大した人生ではないが「何があっても涙など流すものか」と自分なりに踏ん張って生きてきた、だが母親が病院に運び込まれ、もう意識を取り戻す事がないと考えてしまうと母親の事を思いだし何度も涙が込み上げてしまう、ワタクシは情けないマザコン野郎だった、だが人に何と見られ何と思われようと再び元気な母親と会いたかった、だが、それは叶わなかった、入院して11日目、夕方の5時半に病院から電話があり、タクシーで駆けつけた同時に子供たちにも病院に来るように電話した、病院に着く入り口で長男と出会い急いで3人で病室に入った、しかし、ベッドの上には既に心臓が止まった母親が横たわっていた。
‘親の死に目に会えない,「なるほど、こういう事か」と思った、医者が入って来て「ご覧の通り心臓が停止致しました、機械の停止をご確認いただけますか、18時10分御臨終です」と深々と頭を下げた、その時過去を振り返らない事を信条にしているワタクシが母親の事になると「もっと美味しい物を食べさせてやればよかった、もっと相手をしてばやればよかった、もっと優しく接してやればよかった」と次から次に後悔が津波のように押し寄せた、まだ少し暖かい母親の頬をなぜながら「母さん、長い間本当に有り難うね、御免な」と涙を流したが不思議とその後は心は落ち着いていった、次男も後から到着し別れを惜しむ、そこに警察がやって来た。
家族全員が別室に連れていかれ前回聞かれた事を確認される、そして母親の遺体を警察に運び外傷がないか写真を取り、翌日検診をおこない場合によっては解剖する事になる事を告げられた、その移動の為に葬儀屋に連絡を入れてほしいと言われた、だが一つ引っ掛かった、医者が身体的にどうしてこうなったかの原因が解らないから死亡診断書を書けない為に警察が介入すると言うのだが実際に最後に死んだのは病院ではないか、警察の話しは病院に運ばれた原因が重要らしいのだが葬儀屋が警察や検診する病院までの往復の費用、病院での検診及び解剖費用は全てワタクシたちが払わなければならないのだ、ワタクシが母親に何かしたと疑われそれを晴らす為の費用を払わされ母親はあちらこちらに運ばれ解剖までされる、愛する人を無くしたばかりで哀しみにくれる人々に更に負担をかけ追い打ちをかけるシステムではないだろうか、ワタクシは当然直ぐには納得出来ないので医者の説明を求めた、その間に看護師は葬儀屋はまだ来ないのかと4回も聞いてきてワタクシの感情を逆撫でした、結局、医師や警察とも話しをしたが国で決められたシステムなら理不尽でも従うしかな
い、母親は次の日の朝に検死の結果解剖され医師の診断は肺炎ということになった、「そうじゃないだろう」と納得出来ないどうしようもない憤懣だけが心に残ってしまった。
10/6に直葬という費用をかけない方法で母親の葬儀が行なった、参列者はワタクシとジョイ、叔母とワタクシの従妹、ワタクシの子供たちの6人、賑やかな事が好きだった母親に取っては寂しい見送りであったかもしれない、焼かれて母親が骨だけになり出てきたが何故か虚しかった、骨壺に入れた分とは別に少しだけガラス瓶に分骨した、今は時がたち気持ちは少しずつ落ち着いてきたが、59年間一緒にいた人と会えない、話せないというのはやはり寂しいものだ、母親の一生は家族を支えて家族の為の一生だったのが、人は誰かを支えられ支えて、また守って守られて幸せを感じられる生き物だと改めてしみじみ感じる、ワタクシはフィリピーナのジョイとお互いを支え合いながら前向きに残りの人生を生きて行きたいと考えている、ジョイを支えるという事はフィリピンにいるファミリーも支えるという事だが、それもワタクシの残された人生だろう、姉からは花が送られてきたが他の兄弟からは何も言ってこない、人としてどうかと思うが、もう文句はよしたいと思う、文句を言っても何も彼らは変わらないだろうから、母親が無くなって寂しい反面、解放された気持ち
もある、一緒にいた事で出来なかった事が出来るようになった、母親との関係は思い出として心の中に一生残るが今は前を見て新しい局面に目をやらなければいけない時だろう、永住も含めて来年1.2月位には母親の遺影と遺骨を持ってフィリピンに渡るつもりだ、その時に機上から「母さん、これがフィリピンだよ」と見せてやりたいと思っている、母親はワタクシの心の中にいつも一緒にいる、そしてずっと心の中で一緒に生き続けていくのだろう。
「母さん、もう心配する事ないからね、俺も子供たちも頑張るからね、本当に有り難うね」
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