先月は集中して取り組んでいた
メディテーションのプラクティスの影響で
自己内省を促す力が働いたのかな。
目を開けたその時の
淡々とした心持ちを逃したくなくて。
気が済むまで味わっていたら
ブログの投稿すら
すっかりご無沙汰でしたね。(笑)
ごきげんいかがですか?
Yukieです。
ちょうど春分の頃、
濃厚な仏教マインドに触れる機会が
何度か重なったこともあって。
新たに興味がわいた瞑想の
集中レッスンを体験してきました。
その瞑想に与えられた明確なテーマ
「慈悲(コンパッション)を捉える」では、
日常の一挙手一投足を通して
慈悲を持つ訓練をシンプルに重ねる。
そう…慈悲とは訓練を通して
身に付けて行くことができるというの。
そこは過程の中でたどり着く
ひとつの境地と捉えていただけに、
ひらりと印象が変わった瞬間。
自己解釈の狭さも可笑しい。(笑)
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慈悲って何なんだ?と。
愛とは違うのか?と。
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それくらいの
軽やかなアプローチだったしね。
ここを尋ねるや答えは明確で、
慈悲とは(相手に)
楽を与えて、苦を除くこと。
愛とは(自分や相手の世界で)
幸福を拡大すること。
ああ、そうか。
慈悲を語るときに味わえる
わたしからあなたへと流れる
圧倒的なギブの世界の懐の深さは
そこにあったのかと。
同時に
慈悲という言葉に当てがわれた
悲しみという文字の
インパクトにも気付く。
そのことをたずねる間もなく
回答が降りてきた。
慈悲とはたしかに
悲しみを味わった者からこそ
強く放たれるかもしれないが、
その限りではない。
何故なら「かなしい」とは、
悲しい(かなしい)だけじゃない。
愛しい(かなしい)とも
云えるのだから、とーーーーー
…嗚呼、
また別の旅のルートが、
自動的にはじまっちゃったな。
