2007年6月8日、日本大阪に到着した後、一日が過ぎた。

日本語学校の開校は7月なので、まだまだ学校に行くまでは3~4週間の時間があった。

本来の留学目的である空手に取り組むために、寮の近くの公衆電話を探しに出回った。その時はまだ日本の携帯電話をもって

おらず、なお、今のようにスマートフォンがあってSIMさえ変えれば使用できる時代ではなかった。

公衆電話が唯一の方法だったのだ。

 

人生で初めて、日本の公衆電話を使用して大切にもっていた東海会長の携帯番号を確認し、電話を掛けた。そもそも、私のことは覚えていらっしゃるのか、電話番号は変わっていないのか、まったく予想ができなかった。ましてや、私の日本語が通じるのかも心配でならなかった。

その以前に、今考えると、日本では迷惑をかけない文化があるので、前もって日本に来る前に連絡を取り合って予定を決めることが筋だったが、その時の私と言ったらそんなことってできるはずもない。。。なので、飛び込み営業のようなとりあえず電話しか方法がなかった。失礼なやつだ。。。

 

電話をかけて15秒程、心臓がバクバクとする。”はい、もしもし” 幸いにも電話に出てくださった。

もちろん誰なのかはわかるはずがない。この日のために練習してきた日本語を駆使して電話越して説明をしたのだ。

 

覚えていらっしゃるかしれませんが、何年か前に韓国の空手の大会でお会いし、日本で空手の練習がしたいと伝えた者です。やっと2年間の兵役を終えた後、日本留学準備をして、今大阪に来ています。一度お会いできますでしょうか? 

 

もちろん、その当時は上記のような文章ではなく、外国人のカタコトの日本語だったので、恥ずかしかったが、奇跡的に気づいてくださったのだ。

”明日の夕方4時に大学に来なさい”

”はい。わかりました。明日行きます。”

どうせ、することもなく、暇だったので、即答で返事をし、行き方を調べた。

寮がある日本橋駅から近鉄で15分くらいいくと河内小阪駅がある。その駅にはわが母校となる大阪商業大学がある町である。そしてここは、私が10年にわたって生活することになる町でもあり、私の妻との出会いの町でもあるため、今は第2の故郷のような場所だ。

 

余談だが、2007年当時の韓国と日本の経済水準は今よりも、ずいぶん差があった。なので、電車からみた風景や仕組みなどは韓国とは大きく異なっており、本当に私は日本に来たのだと実感がわいてきた。

 

 

そして大学に着くやいなや、大学の正門前にある公衆電話で東海会長に再度電話をした。 

”大学につきましたが、どこに行けばよろしいでしょうか?”

”大学の中に喫茶店があるからそちらに来い!!”

喫茶店についたら本当に東海会長がいらっしゃったのだ。私は大きく頭を下げて挨拶をした。その時の東海会長の反応と言ったら

こいつ、ほんまにきよった!!びっくり

 

何年ぶりに直接お会いしたので、以前頂いた電話番号と路線図のA4紙をお見せしながら、これだけを信じて日本に来ましたと伝えたところ、笑いながら何を計画しているのかと聞かれた。

私はとにかく、日本で空手を学びたい、練習したいですと伝えた。すると、会長からは一般の空手道場に案内することもできるが、お金がかかるから、大会を目指すなら、うちの大学で練習しなさいと言っていただいた。本当にありがたい限りであり、夢見ていた日本の大学の空手部で練習ができるので感激した。(その年、うちの大学は13年ぶりに全関西大学団体戦で優勝し、全日本大学団体戦で準優勝したので、すごく強かった)

 

ここから私が夢見ていた日本空手留学が始まったのだ。その時は長くても1~2年だけ日本で練習して韓国に帰ると想定していたが、次第に考え方が変わり、何と10年以上、日本にいることになる。。。実にいろいろな出会いと出来事があったのだ。。

 

日本の強豪大学空手部との練習はどうだったのか、、、果たして私は強くなれたのか? 

 

続く。。。。