「2007年6月7日」私は1年間のオープン航空券で大阪関西国際空港に到着した。

※オープン航空券とは1年以内に自分で帰る日を指定して航空券をとることができるチケットを差す

もちろん、誰も私を知る人はいないので、空港まで迎えに来くるこってなない。

前もって調べた通り、私は空港リムジンバスを乗って近鉄上本町駅に向かった。バスの中で見えてくる大阪の風景は言葉通り

”日本”だった。6月だけあって、湿度も高く、蒸し暑かった。

上本町駅についてバスから降りると、日本語学校の担当者がピックアップに来てくれた。上本町駅から車で5分の距離に私が登録した日本語学校が見えてきた。その近くに大きなマンションがあり、そちらが寮であると説明され、カギをもらって取り扱いのための簡単な説明を受けた。

幸いにも(?)ルームメイトと二人で使用する2LDKの部屋で、毎月の家賃は3万5千円程度を支払った記憶がある。

もちろん、ルームメイトは男で、僕より年上の先輩だった。

偶然にも地元が同じだったので、親近感が沸いてきたが、彼は大学を休学して大阪に語学研修で来たのだ。

大学はなんと延世大学出身で韓国で2番目に頭が良いと言われる大学である。。

平日はバイトをしているようで、夜になると家に帰ってくる。僕より大阪で暮らした時間が長いので、いろいろ、情報共有で

たくさんお世話になった。感謝!!

 

日本語学校は日本橋駅の近くだったので、みなみと呼ばれる大阪の中心地難波からも近い。

 

周りに見えている文字はやはり日本語だらけ。。。日本に来ていることを実感した。

日本語をある程度勉強したおかげで、自信はあったものの、実際には聞き取りが難しかった。後々考えるとみんな、関西弁で話すので、特に難しかったかも知れない。言語の重要性を認知していたため、前もって日本語学校を短期の3ヵ月で登録したのだ。

学校は7月から夏学期が始まるので、まだ開校まで3週間程時間があり、その前に生活に必要な手続きを済ますことにした。

 

「必要手続き」

・住民登録及び国民健康保険加入:大阪市役所

・在留カード申請:南港にある入国管理局

・銀行口座開設:在留カードをもって郵貯口座を開設(他の銀行は手続きが難しい)

・携帯の申請:在留カードをもってAUで申請(当時はスマートフォンはなかった)

 

全ての続きには自力で日本語を駆使して行わなければいけず、毎回、不安だった。

友達もいなかったので、助けを求めることもできなかった。日本の行政、申請手続きには韓国とは違って、多くの書類に署名を求められる場合が非常に多くて、全て日本語で書かれている資料を理解することはもちろんできない。言われるがままに署名した。

全てが初めての経験だったし、行政手続については韓国でもやったことがなく、日本に来ていろいろな手続きをしながら、私はその意味に気づいた。

 

僕が自分の人生の責任者であることを日本社会は求めているのだ。

今は誰も私の保護者や保証人にはなれない。自分で責任を持つしかない。

 

簡単には慣れない出来事だったが、この日本留学は私が親元を離れ、21歳で世の中に一足踏み出した独立であったのだ。

それ以来、日本生活時代から今のオランダ生活において何とか自力で生活を続けている。新たに家族が増えたのも奇跡だ。

 

こうして始まった私の日本留学生活は本来の留学目的を成し遂げるために大阪に来た次の日からすぐ実行することになる。

私が何より大切にもっていた電車の路線図と東海会長の連絡先が書かれているA4の紙、そこに電話を今すぐ掛けるんだ!!

そのために、公衆電話を見つけるべく、寮の外に出た。そこには日本のアニメやドラマで見たことのあるかわいい緑の公衆電話があったのだ。

 

 

続く。。。。