アジアジュニア選手権を銅メダルで終えた私は、メダルを片手に韓国の実家に帰ってきた。しかし、おめでとうや、よくやったねという共感の言葉を家族から期待することはできなかった。

 

”今考えると、普通に勉強を一所懸命にして、良い成績で、良い大学に進学し、良い会社に就職し、安定的な生き方を選ぶ道を両親は期待していたかもしれない”

 

しかし、私は、偶然にも獲得できた銅メダルによって、非常に大きい動機付けされ、世界を目標に練習を続けていく。そして始まった高校生活、今までは、強がるための空手を練習した私だったとすれば、これからは、もっと空手が強くなりたい思いで、一所懸命に努力していくことになった。学校を行ってから、道場にいって練習し、その後はコンビニでアルバイトをし、(家がコンビニを商っていたため、働かざるを得なかった)家に帰ってくると夜の11時がすぎる。このまま、寝たら強くなれないという焦りから、30-40分程度、走り込みをしながら、体力をつけていった。

それにつれて、私の空手実力はよくなっていき、韓国の代表先発でも優勝をしながら、ジュニア代表選手の座を維持できた。再度、説明させてもらうが、韓国の空手の底辺はそれほど広くないため、いわゆる、彼らだけのリーグになっている面もあるが(選手層が薄いという意味で、それほど、競争が激しくない)いずれにせよ、私は優勝した。

 

”この経験は、ビジネスにおけるニッチ市場を攻略して、その市場で差別化と卓越な実績を上げて、生き残っていく戦略を学ぶ貴重な経験だったかもしれない”

 

韓国代表先発で優勝した私は2002年、日本・東京で行われたアジアジュニア大会に韓国代表として出場することになった。そしてこれが私の初めての日本経験となる。前回の大会で銅メダルを獲得したので、今回はそれより高い座を目指して頑張ってきたし、空手の本場といえる日本の大会に参加できるということで、非常にわくわく感と緊張したのを覚えている。 

 

韓国チームのチーム服を着て日本に出国したし、練習時間と自由時間にもKOREAと書かれてあるジャージを着て自慢げに道を歩き回ったが、その当時、日本における韓国の存在感はほとんどなったため(今のようなK-POPは夢だに想像できない)、特別な何かの待遇を期待することはできなかった。もちろん、私は、日本語の一言も話せなかったので、グループで移動せざるを得なかった。なのに、海外の有名なサッカー選手のような扱いを幼いころは期待していたかもしれない。

 

大会の参加日が近づいてきて、私の試合の時間がきた。20年も前の試合なので、よく覚えていないが、1回戦敗退だったと思う。そのまま、試合終了。2年も準備してきたのに、むなしかった。。。参加に意義を見出した大会といえるが、その時、私は内心気づいていたかもしれない。私がいくら時間をかけて一所懸命努力しても、ちゃんとした練習方法や技を習得しなければ、独りよがりとなり、世界の壁を超えることはできないと。。。。それが、先進システム、途上国の差かもしれないと。気持ちだけでは勝てないと。。。。

 

ところが、このような経験は現在の私を基準で考えると、まったくと言っても良いほど、素晴らしい選択だったし、やるべき努力だったと思う。

 

韓国では優勝、優勝、優勝!!!世界の大会では1回戦敗退!!!これが私の現実だった。しかし、あきらめず、2003年度、フランスである世界ジュニア大会を目標にめげずに、前に進んでいった。

 

つづく。。。