昨日は長女が

勉強を一緒にしたいというので、少しだけ付き添いました。

(長女と二人でいると、下の二人が絡んでくるため)

 

 

時計の読み方をやっていたのですが、

「○○ふん」がどうしても理解できないらしい。

 

 

 

 

私も精一杯説明するのですが、

質問がわからない様子だし、

 

 

そもそも、

長女は問題も読まずに当てずっぽうで

解こうとするし(おいおい)

 

 

 

 

数十分ですが、なかなかにハードな時間でした。

 

 

 

 

 

 

長女の態度に若干イライラしつつも、

彼女だけを責められないなと感じました。

 

 

 

それは、長女の気持ちが理解できない自分だったから。

 

 

 

いまの私にとって

 

時計が読める

時間が分かる

 

というのは、当たり前のことです。

 

 

時間が読めない気持ちに

100パーセント共感してあげることはできません。

 

 

 

どこに疑問を感じるのか

つまづきのポイントがどこにあるのか

数十年前の自分を思い出して、想像で補うしかないのです。

 

 

 

ひとつ上・2つ上の子なら、

もっとうまく教えられるでしょう。

 

それは少し前の自分の姿だから。

 

 

 

当たり前にできるようになると、

「どこができないのか」を忘れてしまうからです。

 

 

 

 

 

 

これは、時計の読み方に限らず言えることです。

 

 

 

 

自分が苦労したこと

ようやくできるようになったこと

わかるようになったこと

 

 

 

 

ひとに伝えようと思うと、

「自分はまだまだ」って思ってしまうかも知れないけれど、

 

 

 

 

 

できるようになったすぐだから

完璧じゃないから

伝えられることがあるんです。

 

苦労するところに共感できるんです。

 

 

 

 

わたしよりもたくさん読者さんがいて

年齢や経験値が上で

資格いっぱいもってたり

”すごい”ひとはたくさんいるだろうけど

 

 

それでも、日々の気付きや自分の思いは

こうやって書き綴っていきます。

 

 

書いたり喋ったり、何かしらで発信は続けたいと思います。

 

 

少し前の自分が見聞きしたら、

 

「それ、知りたかった」

「それで良いんだ」

 

そう感じるだろうと思うからです。

 

 

 

何者でもない「いま」から、やっていいんだよ。

自分が許可を出すだけですからね。