かつて、
私が今の夫とお付き合いすることになったと、
仲の良い友人に告げたところ泣かれたことが忘れられない。
私にとっても、
世間的にも、
喜ばしい事だと信じ
当然喜んでくれるものだと思い込んでいたので、
真逆の反応にしばし呆然としたあの日から、
嬉しいことを報告することを
ためらうようになりました。
友人は人知れず彼氏に振られた傷が癒えていない日々を送っていた。
一方全く恋愛気がなかった私は、急に起こった嬉しい出来事に
友人も喜んでくれると断定していた。
思えば、「自分の事は自分の事。友人の事は友人の事。」として受けとめるべきものという私自身の思い込みが、すれ違いを生んだ気がしますが、
私自身も、もっともっと時を遡ると、
自分と他人の幸福を比べ落胆し、他人の幸せを喜んであげられなかった日々があり、
反省しています。
先程の話のその後結婚が決まり、
色んなかたにご報告させていただくなか、
別の友人はまた、
祝福の言葉よりも
私自身の反省点である「かつて他人の幸せを喜べなかった態度」を指摘するに至りました。
この時は、正直、なんの恨みがあって?と疑問にも思いましたが、
私は嬉しい報告をそこそこに、過去の自分の反省点を述べるに至りました。
その友人は加えて、
私の、かつての気が多かったり、惚れっぽい性格故、
今回の結婚も勢いなのでは?と
他の友人が懸念していたとの報告も添えてきました。
もう祝福とかの次元ではありませんでした。
この場でうっぷんを晴らしている訳ではありません。
幸福には比較を伴ってはいけないのだという自戒を込めて改めて書いているのです。
これからの人生はもっと人それぞれ多岐にわたるのです。
その人が嬉しいこと、幸せなことは、
その人の立場で受けとめてあげたい
比較という愚かな価値観に縛られることなく
私がそうありたいと願う一方、
そうでない価値観の友人も
いるというのも事実です。
そして、これからご報告させていただきたい私事があります。
けれど、上記のことへの懸念から、
今後ご報告させていただきたい友人が限られてくることを悲しく思います。
それは同時に、うわべだけの友人はもはや友人とは思えないという結論に至ったことを示しています。
私には困った時に力になってくれる友人がいます。
彼女達は、私の報告を、親のように喜んでくれました。
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