こんにちは。

らんです。




 


東畑開人『居るのはつらいよ』



デイケアで働く臨床心理士のお話。


語り口が軽快で読みやすい。


『ただ、いる、だけ』の価値と


それを支えるケアの価値


そして


『ただ、いる、だけ』ができない


今の社会の問題点を


ケアの風景を通して伝えています。


ケアとセラピーについて


考える機会となりました。



所々抜粋させてもらいました。


少し長いですが


よろしければ読んでください。




 ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。


 セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。


 ケアが依存を原理としているとするなら、セラピーは自立を原理としています。自分の問題を自分で引き受ける。痛みや傷つきを受け止める。そうすることでより自由になる。人として成熟する。だから、ケアでは変化するのは環境でしたが、セラピーでは個人が変化していくことが目指されます。


 「ケアとセラピー」は成分のようなものです。人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それはつねに両方あります。

 

医療にだって、学校現場にだって、職場の新人教育にだって両方ある。それだけじゃない。家庭もそうだし、友人関係もそうです。子育てなんか、いちばんそうですよね。明らかに仮病を使っているわが子に対して、休ませてあげるか、行かせた方がいいか、迷うわけです。依存を引き受けるか、自立を促すか、そういう問いは僕らの人間関係に満ちあふれています。


「ただ、いる、だけ」はつらい。だって、「ただ、いる、だけ」の「ただ」と「だけ」は、社会的価値を否定するメッセージを原理的に含んでいるからだ。社会復帰するとか、仕事をするとか、何かの役に立つとか、そういうことが難しくても、なお「いる」。それが「ただ、いる、だけ」だ。そういうことを超えて「いる」を肯定しようとする「ただ、いる、だけ」は、効率性とか生産性を求める会計の声とひどく相性が悪い。

 そういうものを肯定して初めて、デイケアは可能になる。というのも、少なくないメンバーさんたちが、デイケア以外のどこにも居場所がないからだ。





長男の必要な出席日数は


あと2日となりました。


期末テストで


1度立ち止まってしまった足が


また動き出しました。



私たち親は


セラピーではなく


ケアをしてきました。


学校側が


ケア重視の対応をしてくれました。


「ただ、いる、だけ」を


認めてくれました。



もし


不登校になった段階で


指導の名のもとに


セラピー重視の対応をしていたら


長男は


前に進めなかったと思う。



なんの役に立つこともなく


「ただ、いる、だけ」


そんな自分を認めてもらえる場所


そこにしかいられない心の状態


それを


周りの大人たちが


いかに理解できるか。


『ケースバイケース』で


向き合えるか。



書くのは簡単だけど


実際は難しいです。


いつも悩みます。


この判断でよかったのか。


もっといいやり方が


あるんじゃないのか。



留年カウントダウンは


免れたとしても


社会人カウントダウンは


間近に迫っている。


『ただ、いる、だけ』が


認められない世界に


入っていかないといけない。



長男は


2時間ほど登校して


帰ってくると疲れ果て


お昼寝をします。


そして夜の睡眠時間は10時間。


よほど疲れてしまうんだろうな。



今はそんな状態だから


ケアを重視する対応が


間違っているとは思わない。


でも


将来のことを考えたとき


じゃあ


いつから


セラピー配分を増やせばいいのか。


セラピーを多くすることで


また元に戻ってしまうこともある。



すぐに結果が出るものではないから


その段階ではわからない。


わからないから不安になる。


それがいつまで続くのか


終わりが見えない。



サポートする側の心労は


どんどん蓄積していく。


サポートする側のサポートは


いったい誰がしてくれるのか。



自分の心は自分で整える。


だけど


心身ともに疲れ果てて


それすらできないときもある。




個人個人の気持ちよりも


経済成長ばかり優先する


この世界では


立ち止まることを許してくれない。



立ち止まったら


世界から置いていかれる。


焦燥感から


なんとかしようとすればするほど


心が置いていかれる。



苦しい世界にいる人は


どんどん増えている。


『ただ、いる、だけ』の居場所を


必要としている人は


たくさんいるのに


居場所を作れない社会。


それが今の私たちの社会。





何日もかけて考えましたが


今回のブログの


着地点が見つかりませんでした。


私にとっては


それだけ難しい問題でした。






ブログをたずねてくださった皆様

ありがとうございます。


それではまた。