こんにちは。
らんです。
私は
歴史小説を読むのが好きです。
高校生の頃は
日本史で赤点取るほど
ちんぷんかんぷんだったけど
だんなや子ども達に刺激を受けて
小説や漫画では
歴史を楽しめるようになりました。
秒で忘れる記憶力なので
「あれ?この人誰だっけ?」
ってことも度々で
話の流れがわからないところも
よくあるんだけど
ちっちゃいことは気にするな🎵
わかちこ精神で
現代小説と同じように楽しんでます。
特に好きな作家さんは
富樫倫太郎さんです。
今は
北条早雲シリーズを読んでます。
戦国時代は苦手だけど
この小説を読んでから
北条早雲が好きになりました。
小田原城にも行きました。
『青雲飛翔篇』は
北条早雲の若かりし頃
伊勢新九郎のお話です。
この中で
とても心に響いた場面がありました。
新九郎は
奥さんと幼い長男を流行り病で亡くし
我を失って彷徨しました。
その頃の都は
戦や流行り病などで
道端には貧民や死人が溢れ返っている。
新九郎も同じように
道端で行き倒れていたところを
子どもの頃に知り合った僧侶
宗哲に助けられます。
宗哲と弟子の宗順の介護を受け
少しずつ回復します。
ある日
この2人とともにお布施を集め
それを貧民に施す手伝いをしました。
そこで新九郎はある疑問を抱きます。
ほんの一時彼らの飢えを癒し
餓死するのを半日ばかり先延ばしすることに
いったいなんの意味があるのか。
それは無駄なのではないか。
それに対する2人の答えは
「すべての人を救うことができれば、それが一番いいのでしょうが、残念ながら、わたしにその力はありません。ですから、自分にできることをするだけです。」
というもの。
その後
2人の師である宗仁からは
「自分には何の力もないと気が付いたとき、人は初めて他人を救うことができるものよのう…」
という言葉を聞きました。
新九郎は
(自分を救うことすらできないというのに他人を救うことなどできるはずがない。おれには、そんな力はない。)
と思うのですが
その後ある行動に出ます。
私が長男のことについて
これまで不安に感じてきたのは
どうしたら
長男が学校に行けるようになるのか
わからないから。
できることはやってきた。
これ以上はどうしたらいいの?
と、自分にできることの限界を感じてた。
つまり私は
私がどうにか動くことで
長男を学校に戻すことができる
そう考えていた。
でも現実ではそれができなくて
自分を不甲斐なく感じて苦しかった。
こんな情けない私が
母親になんてならなきゃよかった。
こんな私に
できることなんてない。
そう思って
次に繋げる力も出てきませんでした。
でも
長男を学校に復帰させることは
私にはできない。
それができるのは本人だけ。
私にはできないことを認める。
その上で
ただ話を聞くこと
見守ること
なにかあったときにサポートすること
はできる。
今の自分にできることを
ただやるだけ。
そこに苦しみは生まれない。
救えなくてもいい。
目の前の人に
自分ができることをただやる。
それだけに力を注げば
大きな力になる。
不安に飲み込まれなければ
私の心は救われる。
私の心が救われることで
周りの人も救うことができる。
学校に復帰させることはできなくても
心に寄り添うことで
長男の心を救うことはできたのかな。
新九郎はその後義賊となり
自ら炊き出しをして
貧民達に配ることにしました。
でもある日
配るものがなくなってしまいます。
貧民達に罵られることを覚悟するのですが
彼らは新九郎に
「この世に生まれたことを恨み、この世にいる者たちすべてを憎んで死んでいくはずだったのに、最後の最後にうまい飯をたらふく食わせてもらいました。これで心残りはありません。ありがとうございました。」
と口々に感謝します。
貧民たちの命を助けることはできないけど
新九郎が自分にできることをしたことで
貧民たちの心は救われた。
「自分には何の力もないと気が付いたとき、人は初めて他人を救うことができるものよのう…」
誰かを救おうと思っても
現実にはできないことばかりで。
こんなちっぽけな私には
なにもできることはないと
あきらめてしまうけれど。
救う力はなくても
私にできることはある。
小さな1歩でも
その1歩を踏み出すことで
人を救うことができる。
この本からそんなことを学びました。
ブログをたずねてくださった皆さま
ありがとうございます。
それではまた