in a philosophical mood #2 | じゃがいものエサ箱

じゃがいものエサ箱

うちのハムスターの名前がじゃがいもです。
イエロージャンガリアンという種類ですが、
うちに来て一カ月ほどで、黄色だったのが灰色になりました。
・・・まさかお前・・・塗装・・・?

さて、昨日は、
科学とは、実際は、ただの人間の「意見」であり、
自然に対するその時代の「ものの見方」にすぎない、
と言いました。
実際その通りです。
科学は、時代とともに進歩し、
新たな発見がなされるたびに、
僕らの言う「自然法則」は、書き換えられていきます。

そして、僕らの「当たり前」とは、
こうした、現代の「意見」「ものの見方」に基づいています。
しかし、それが真理かどうかは、別の話です。
あくまでも現代での「意見」ですから。

で、現代医学では、「人間とは何か」という話を突き詰めると、
「人間とは、つまるところ意識のことであり、結局、脳のことだ」
という話になっていきます。だから、脳の機能が停止した時点で、
「その人は死んだ」とみなし、
「脳死した人の体で、まだ生きていて使える部分は、取り出して臓器移植に使おう」
という話が出てきます。
理論的に考えると、そうなってもいいように聞こえます。
ところが。


面白い例を挙げましょう。
今から十年以上前に話題になった本ですが、
柳田邦男の『犠牲(サクリファイス)――我が息子・脳死の11日』
という本があります。
$じゃがいものエサ箱
この本は、作者が、実際に脳死になった息子について、
脳死になってから亡くなるまでの姿をつづったものです。
この中に、非常に不思議な場面があります。
脳死になった人の脳というのは、
中身がドロドロになって、スキャンして断面図を見ると、
通常あるはずの脳のしわがなくなり、
シャーベットか何かのように、液状化して、
ただのっぺりとした状態になっているそうです。
そんな状態では、もはや思考なんてものは、一切できません。
反応すらできません。
だから、人工的に呼吸などをさせて、生命を維持させるのですが、
それでも2週間ほどすると、死んでしまうそうです。
作者の息子さんもそうなるのですが、彼は脳死になった後で、
なぜか、家族が病室に入って来る時だけ、血圧が上がるそうです。

体を拭いたりする看護師さんは、
「やっぱりわかるんですねぇ」
などと言いますが、医者は「ありえない」と言って無視します。
これは、作者が実際に起きたことについて書いているので、
意図的に「ありえない」話を、作って書いたとも思えません。
それに、もともと作者は、「脳死=死」という立場をとっていた人です。

もし、人間の意識を脳が生み出すのであれば、
「脳死という状態の中で、家族が来たときだけ血圧が上がる」
という反応は、絶対に起きないはずです。

また、別の本(『脳死・臓器移植の本当の話』小松美彦)
では、脳死患者が「家族の呼びかけに反応することがある」
とはっきり書いています。
$じゃがいものエサ箱
そして、脳死患者から臓器移植用に摘出手術をすることに関して、
次のようなイギリスの医者の言葉も引用しています。
「(脳死患者に)メスを入れた途端、脈拍と血圧が急上昇するんですから。そしてそのまま何もしなければ、患者は動き出し、のたうち回りはじめます。摘出手術どころじゃないんです。ですから、移植医は私たち麻酔医に決まってこう言います。ドナー患者に麻酔をかけてくれ、と。」

さらに、『記憶する心臓』(クレア・シルヴィア著)という本では、
心臓移植を受けた作者が、手術後に急に食べ物の好みが変わり、
のちに、それが亡くなった心臓提供者の青年の好みそのものだった
という話が載っています。

他にも例を挙げればきりがありません。
心臓移植を受けた少女が、移植手術以降、毎晩、
知らない男に襲われる夢を見るようになり、
のちに自分の心臓提供者が、殺人事件の被害者だとわかり、
その夢の男の似顔絵を描いたところ、それが犯人だった・・・など
いろんな話が、存在しています。

はっきり言って、今の僕らの「常識」なんか、本当の真理からすれば、
恐らく1%も判明していないレベルだろうと思います。
だって、実際、僕ら人間は、太陽系からも出ていなければ、
地球上での出来事ですら、まだわからないことが山ほどあります。
それにもかかわらず、現代の「常識」から考えて「ありえない」と言い張るのは、
「その『常識』とは、実は、現代人が信じている
単なる現代の『ものの見方』にすぎない」
とわかっていないということであり、たとえて言うなら、
「地球が丸いわけあるか!地球は平らなんだよ!」と、
迷信を、かたくなに信じて、言い張っているのと同じです。

たとえば、人間とは肉体のことであり、
意識は脳の産物で、つまり「脳が私」なんだ
と、信じて疑わず、それに異を唱える人を鼻で笑うタイプの人がいたら、
その人に言わせてもらいます。
どうぞ、それを頑張って「信仰」してください。
それはそれで、一つの宗教ですから。
「神は存在する」「霊魂は存在する」というのと、
何ら変わりはありません。
「信仰」です。
さらに、わからないなら、「わからない」と言えばいいように思えますが、
人間は、生きている限り、行動しなければならないので、
どっちの立場をとるか選択しなければなりません。
つまり、生きている限り、「わからない」ではすまされないのです。
たとえば、「あなたは自分が脳死した場合に臓器提供するか」と迫られた場合、
「する」か「しない」かのどちらかを選ばねばなりません。
そのとき、その人の内面で、心の中で、判断が生まれます。
この判断の裏に、「信仰」の選択が存在しています。
つまり、その判断において、無意識に、
「こっちが正しい」と「信仰」しているのです。


さて、何が言いたいかわかりますか?
結局、僕らは全て何かを「信仰」しているんです。
僕らの知識は、すべてその時代の「ものの見方」に基づいています。
つまり、真理そのものなどではないのです。
科学は時代によって書き換えられます。
「常識」も時代によって変わります。
あらゆる時代の人は、あらゆる世界の人は、
何かを「知っている」のではなく、「信じている」のです。
まずこれを理解して下さい。
特に、日本人には、受け入れにくい話かもしれませんが、
「神はいない」というのも「信仰」ですからね。
唯物論に対する単なる「信仰」です。
唯物論という宗教の信者でしかありません。




では、つづきはまた次回に。