in a philosophical mood #1 | じゃがいものエサ箱

じゃがいものエサ箱

うちのハムスターの名前がじゃがいもです。
イエロージャンガリアンという種類ですが、
うちに来て一カ月ほどで、黄色だったのが灰色になりました。
・・・まさかお前・・・塗装・・・?

さて、気づけばこのブログを立ち上げて、
あっという間に25日分も書いちゃってるみたいです。

一番最初に立ち上げたときは、
「定期的に更新する気はない」みたいなこと
言っちゃってますが、結構マメに書いてますね、我ながら。

で、今まで書いた内容で、どれが一番好きかというと、
実はダントツで
「オカマとプラトンと西田幾多郎」
という、立ち上げたばかりのときに書いた物なんですね。

まあ、日本の将来を憂いて、
日本の歴史や現状を大分書きましたが(これからも書くとは思いますが)
実際、僕は哲学を専門としていたので、
本当は、そっち方面はあまり得意じゃないんです。
まあ、昔から「常識」と言われるものを
なんとも思わない所があったからか、
性格がねじ曲がっているからか、
マルクス主義的な教育には染まりませんでした。
中学の時の担任の先生たちは、
一生懸命、朝日新聞の記者の本多勝一
(日本で最初に「南京大虐殺」の宣伝をしまくった人)
の本なんかをお勧めしていましたが
完全にそれを批判する側の大人になってしまいました。
ごめんね、先生。
まあ、みんな当時はそれが「常識」でしたから、
先生たちも、良かれと思って教育していたんでしょうけど。

で、「常識」を真実と思っていない性格が、
僕を哲学の方に向けて行ったような気がします。

ということで、今日は一つ皆さん、哲学な話をさせてください。









皆さんは、今、何時代だと思いますか?


僕は原始時代だと思っています。
と言われると、
「いやいや、科学が進んで、人は空も飛ぶし、宇宙にだって行けるじゃないか」
と思う人もたくさんいると思います。
でも、基本的に、人間は、一番大事な
「人間とは何か」とか「世界とは何か」
といったことを、わかっていません。
確かに、科学技術は進歩しました。
でも、それはただ単に生活が便利になっただけで、
「なぜ世界があるのか」「なぜ世界がこんな形で存在しているのか」
と言われると、最先端の科学でも説明できなくなります。

たとえば、目の前に、丸いコーヒーカップがあるとします。
そこで、「なぜ『丸』なんてものがあるのか」
「なぜコーヒーのような『液体』なんてものが、この世にあるのか」
と言うと、なかなか答えは出ません。

科学では「HOW(どのように)」はわかっても、
「WHY(なぜ)」はわからないと言われています。

「飛行機が飛ぶ原理は、実際のところはわかっていない」
という内容の本が数年前にはやりましたが、
では、その逆(?)を考えて、
「なぜ犬は空を飛ばないのか」と考えてみましょう。
羽がないから?
じゃあ、もし空を飛ぶ犬がいたらどうなるでしょう?
科学者は、慌ててその説明をあれこれ考えます。
そして、その「空飛ぶ犬」を説明できる「自然法則」を考え出すでしょう。
実は、これが科学です。
「カラスは黒い」という「法則」は、
白いカラスが発見された瞬間、崩れ去ります。
現在の「最先端」の物理法則なども、例外が出た瞬間崩壊します。
僕らが信じている「常識」というのは、
「今のところ例外がない」ということに基づいているにすぎません。
つまり、ひとことで言うと、《慣れ》です。
僕らの「常識」というのは、《慣れ》にしか過ぎないんです。
で、結局、「犬が飛ばない」理由というのは、人間の中で、
「自分は飛んでいる犬を見たことがないから、犬は飛ばないものなんだ」
という結論になります。
これ以外の答えはありません。
「いや、自然法則から考えて、犬が空を飛ぶなんてありえない」
と考える人は、実は、その「僕らの考える自然法則」自体が、
「飛んでいる犬を見たことがない」ことに基づいている
ということがわかっていないのです。
「空飛ぶ犬」がいた時点で、その「自然法則」そのものが書き換えられます。
実際、こうして科学は進歩してきました。
新しい発見があるたびに、それをも説明できる「法則」を、
人間が作り出してきたのです。これが科学の歴史です。

だから、僕らが今「常識」と思っている科学も、
これから、必ず書き換えられます。
特に、人間はまだ宇宙にそれほど行っていません。
宇宙に行けば、今の「常識」を覆すようなことが、
恐らくたくさん発見されるでしょう。
そして、そのたびに「自然法則」は書き換えられるでしょう。

で、いったい何が言いたいかというと、
「科学というのは、実は人間が作っているものだ」ということです。
僕らが「自然法則」と呼んでいるものも、実は、
全て人間が作り出しているものに過ぎないんです。
「自然法則」が人間の外にあるなんて、思っちゃだめですよ。
自然界に「自然法則」がある、なんて思っちゃだめですよ。
人間が勝手に「これとこれはこう結びつく」なんて言いながら、
勝手に「法則」を作っているのが、科学なんです。
つまり、科学というのは「意見」なんです。
自然に対する、人間の「ものの見方」なんです。

たとえば、紀元前のギリシャ哲学者アリストテレスは、
重力の説明をするときに「物体は下に行きたがる」と言いました。
それが千年以上、「自然法則」になりました。
しかし、17世紀に、ニュートンが「物体は引きつけ合う」
と言い、「万有引力の法則」という説明をしたので、
今度はそれが「自然法則」になりました。
すると、今度はアインシュタインが「空間がゆがむ」
というような話をして、重力を説明したため、
今ではそれが「自然法則」となり、物理学の世界では、
誰も「引力」という言葉は使わなくなりました。

このように、「自然法則」は、人間がその時代その時代に
打ち出してきた「意見」でしかありません。

だから、はっきり言えるのは、はるか未来の人から見れば、
現代の科学は、おそらくアリストテレスの
「物体は下に行きたがる」と同じレベルのものだろう、ということです。
そうであれば、僕らは、もっともっと頭の中を柔軟にしなければなりません。
今の科学や、今の「常識」は、おそらくまだ真理からは遠く離れた
「現代での思い込み」があちこちに蔓延しているのだろう、と考えるべきです。
間違っても、「今の科学は人類の最終到達点で、
現代の『常識』が、本当の真理なのだ」などとは、思ってはいけません。

しかし、ほとんどの人が、実はそう思っているんです。
かつて、「地球は丸い」と言った人が
「地球は平らだ」と言う大勢の人に笑われたように、
現代人の多くも、「今の常識」を真理と信じて疑わないのです。
そして、その「今の常識」に異を唱える人に対して、
「こいつは馬鹿だ」という目で見ます。

さて、僕は何を言いたいんでしょうか?
ぶっちゃけて言うと、「人間とは何か」というところで、
僕は「現代の科学」を、非常にナメた目で見ているということです。
現代医学では、「人間とは何か」を突き詰めたところ、
通常「脳」に行きつきます。
「私」とは何か、といえば、「思考の源」であり、「意識の主体」になりますが、
そうなると、もう現代医学では「脳」以外の何物でもありません。
養老猛司なんて、そう言い張っています。
さらに言うと、脳の中の「電気信号」が「私」ということになるかもしれません。
で、僕はそうした「意見」に対して、
「ふふん」という冷ややかな目で見ています。

「人間とは何か」という問に対する、現代での科学的「常識」には、
実は結構、ウサンクサイことがたくさんあります。
でも、まるで「南京大虐殺」や「東京裁判」と同じように、
みんな「人間とはこういうものだ」と信じて疑わない面が、非常に強くあります。
まあ、みんな教育なんかで、しっかり「常識」を
刷り込まれますからね。(僕もそうでしたが・・・)

ということで、また次回に続けます。
興味のある人は読んでください。
こっちは、実は、読む人にとっては、
「日本の歴史」以上にショッキングな内容になるかもしれません。