<別居中ー⑱>「諦」ー明らかに見極める

 

精神科受診。

次の日が休みの時に向精神薬を飲んたが、

朝起きれなくなったことを伝えた。

 

私は適応障害らしい。

仕事には行けているのでうつではないらしい。

 

ひとりで家にいるといろいろ考え、

またあの暗闇を覗こうとしてしまうので、

お酒を飲んで紛らわすと言うと、

お酒を飲まずに抗不安薬を出すから飲んでみてと言う。

お酒は、やめられない…。

 

話は変わるが、

YouTubeで古舘伊知郎さんが仏教を推していると言い、

「人生後半、そろそろ仏教にふれよう」という佐々木閑さんとの対談本を読んだ。

 

日本で信仰されているのは「大乗仏教」で、

釈迦がつくったオリジナルの仏教とは教義の内容が全く異なるらしい。

釈迦の仏教は人助けを目的とする宗教ではない為、

「信じる、信じない」ではないと。

 

キリスト教は、「信じる、信じない」を問われて苦しかった。

息子のアレルギーが重くても受け入れてくれた

プロテスタント系の幼稚園では、

毎週日曜日に子どもとは別に大人の聖書の勉強会があった。

聖書を歴史や物語として学ぶのは楽しかったが、

信仰として学ぶことはできなかった。

どうしても、誰かの考えを100%信じることはできない。

 

釈迦の仏教は自分自身が苦しみから解放される方法を考え、

自分の心を自分で改良していくというのが仏教の基本構造らしい。

 

また、日本語で「諦める」は放棄や断念など、

ネガティブなイメージで使われることが多いが、

仏教では「明らかに見極める」、

「諦」は「真理」の意味があると。

 

夫にわかってほしいと思い続け、

これまでネガティブに諦めてきたが、

「明らかに見極める」、

そんな解釈もあるのか…。

 

「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」

(ブッダのことば スッタニパータ)

孤独を怖れる必要はない。

自分が本当は何を求めているか、

孤独と向き合う時間は貴重であり、

学びや仕事は孤独を支えてくれると。