『大いなる遺産』が大変面白かったから、続けて『二都物語』を読んでみた。

 

小説の要約は不得手なだけでなく、労力もかなり使いそうだからやらない( ゚∀゚; )タラー

 

ディケンズの小説には、時々挿絵があるため嬉しい。

 

チャールズ・ダーネイ二回目の逮捕

 

シドニー・カートンが愛する人の為に自己を犠牲にするところは感動的。

 

ただ、カートンの死が輝かしいものになったのは、彼が最も愛する人の為に死ぬことが出来たからなのだとも思う。

 

カートンは、愛する人々に自分の行為が語り継がれることを信じ、フランスに真の「自由」が打ち立てられることを信じながら、幸福のうちに死を遂げることが出来た。

 

それ自体は美しい精神であるし、容易には真似のできることではない。

 

問題なのは、誰しもがカートンのように美しく死ぬ事が出来るわけではないということだ。

 

カートンの美しい死に、まるで対比されるようにこの小説で語られているのは、パリの民衆が牛馬ほどの価値も与えられず、搾取され、抑圧される姿である。

 

彼らは、失意のうちに死んでいく。

 

その数たるや膨大なものである。

 

もし、人間がこのように隷属と抑圧と恐怖におびえながら生きていかねばならないのであるなら、そこでは自己表現の機会が完全に失われているとまでは言わないまでも、それが大きく損なわれるということは火を見るより明らかであろう。

 

悪質な貴族たちに虫ケラのように踏みにじられ、死んでいった幼い子供の生には、一体何の美しさがあったといえるのであろうか(これは、小説の中でも出てくる描写である)。

 

その子供を亡くした父親と母親、兄弟の流した涙は一体何の価値があったのであろうか。

 

これを償うのにフランスの特権階級が払った代償は高くついてしまったのである。

 

僕がここで言いたいのは、価値があるとされている行為(例えば、カートンの自己犠牲の精神)は、それを成しうるだけの基盤、すなわち、個我の意識や人格が尊重されているような社会でないと発揮する機会が失われていくのではないか、ということだ(もっとも、「自由」や「平等」がほとんど空言のようになって繰り返され、人間の「生命」が至上のものと唱えられている今日においては、機会があってもそれを発現するための生命力を恐らく欠いてしまっているのかもしれないが)。

 

フランス革命の精神を批判する人々(例えば、バークやメーストル)の主張は、恐らく完全に正しい。

 

僕も彼らの主張には心から賛同しているのである。

 

しかし、それを担ぎすぎるあまり、抑圧されて窒息寸前の当時のフランス社会の状況を見て見ぬ振りも出来ない、と思うだけなのだ。