人間であること=自由であること
制限のない自由は私たちの精神を蝕む。
自由のない社会は私たちを奴隷化する。
いずれも人間の非人間化だ。

人間であるためには?
自分の頭で考え続けること。
すなわち、不断の自己懐疑!
それこそが人間を真正な人間たらしめる。

「私は果たして~を信じているのか?」「私の行為は神に誓って正しいものと言えるのであろうか?」「果たして間違えていたのは私自身だったのではないだろうか?」

人間は生きている。
「私」は生きている。
しかし、生きていることは人間であることとイコールではない。
人間は思考停止に陥ることで、自分自身の決断とは異なるものに従うことで、容易に非人間化する。

人間の生を真正なものとして維持するためには、「理性的動物」でなければならない。
ヒストリーをストーリであると理解しつつも、理性的たらんと努め続けることが、歴史的理性を持って生きるということなのか。

宗教、特にキリスト教は2000年以上も存続している。
それはすなわち、キリスト教自体が長大な歴史を持つ、巨大な解釈体系であることを意味する。
キリストを基に正統な解釈を求め続けてきたのが、キリスト教の歴史である。

私は確実なものを求めるが、確実なものは常に私の手からこぼれ落ちてしまう。
「ようやく確信した」「これが生きるということなのか」と得心をしたつもりでも、それが自分の頭の中で考えたことであることには変わりがない。
突き詰めると、言語を使用して確実性を追及している時点で既に、「独断的」に真理を求めている私を発見する。
この不断の真理追及を行っている「私」とは一体何者なのか?

「私には、一切が不確実ということだけが確実である」とは、古代の偉人の言葉である。
人間は、一切が不確実であることを理解しながらも、決して真理を求めることをやめない。

人間は「(言語を用いて)真理を求める存在」「解釈する動物」である。
そして、決して真理にはたどり着けない。
なぜなら、あらゆる真理は本来は仮説に過ぎないから。

では、私はどうやって生きていけばいいのか?
何ら保証のない状態でただ「生きろ」と?

人間として生まれたことは、大きな不幸であると同時に、輝かしい特権である。
人間は生きているがゆえに、考えざるをえない。
決して考えるために生きているわけではない。
ただ、人間であるためには考えなければならない。
そして、以上は全て私の頭の中で言語操作(?)をした結果にすぎない。
思考とは果たして無意味なものなのか。

思考が無意味であるなら、人間であることが無意味であるし、生きることが無意味である。

私は笑い、悲しみ、そして憤る。
それが生きるということだ。
ただ、それに意味があると私の理性は判断しない。

ここでひとつの仮説。
あらゆるものは幻像(幻想)にすぎない。
私は生きているがゆえに幻想を抱く。
その幻想を解釈し続け、それに意味を付与していくことこそが、真正な意味で生きるということなのではないか。
そのように考えると、私の生は、私固有の幻想、私の創造物となる。

しかし、果たして本当に確実なものは存在しないのであろうか?
これもユークリッド的にしか物事を思考できない人間には、余りに大きすぎる課題である。

何一つ分からないが、もう明日が来る。
明日は明日のことを為さねばならない。
食べて、眠り、そして仕事に行き……。

とりあえずは、これを「生きる」ということにしておこう。
下手な考えは休むことと同じというのは、本当のことだ。