チェスタトン(1874-1936)は、日本では『ブラウン神父』シリーズで有名らしい。

 

 

僕も二年ほど前に『ブラウン神父の童心』を読んだことがあったのだが、だんだん退屈になってきて読むのをやめてしまっていた。

 

しかし、最近改めて読み返してみると、これがなかなか面白かった。

 

チェスタトンは、ブラウンというカトリックの神父の口を借りて、無神論やそれによって生じる危険を次々と告発しているのだ。

 

例えば、ブラウン神父とその相棒フランボウの次の会話。

 

ブラウン「たった一つの魂の病は治せるのかな?」

フランボウ「そのたった一つの魂の病とは何です?」

ブラウン「自分がまったく健康だと考えることですよ。」(アポロの眼)

 

こうしたブラウン神父が次々と放つ警句が面白い。

 

ただ、チェスタトンは単なる推理小説家ではない。

 

それは、彼の主著である『正統とは何か』を読めば、明らかとなる。

 

『正統とは何か』という書物については、実は行きがかり上、『ブラウン神父』シリーズより先にその存在を知っていただけでなく、それがイギリスの保守思想を見事に表現してみせている、ということも承知していたのである。

 

そのため、当然以前からずっと関心を持っていたのだが、先に述べたように『ブラウン神父』に退屈したという経緯があったため、しばらく敬遠していた。

 

今回、名著とされる『正統とは何か』を読むきっかけとなったのは、自分が『ブラウン神父』を楽しく読めるようになっていたことに気づいたからにほかならないのだ。

 

さて、本書においてチェスタトンが主な批判対象としているのは、進歩主義と理性主義を標榜する知識人たちである。

 

そして、そうした進歩主義者たる知識人たちは、大抵が無神論者であるし、「ニーチェ主義」なのである。

 

そのため、チェスタトンの攻撃の矛先は、まさしく彼らの信奉するニーチェに向かっていかざるをえなかった。

 

「ニーチェ主義」とは果たして何か?

 

それは。極端な価値相対主義である。

 

絶対的だとこれまで認識されてきたもの(例えば、道徳や伝統など)は、「神が死んだ」ことによってことごとく崩壊せざるをえず、最後に残るのは「われ思う、ゆえにわれあり」を唱えたデカルト主義的な純粋理性と、それをも乗り超えんとするニーチェ流の「意志」のみとなるわけだ。

 

善悪の認識を必要としない超人的な「意志」と純粋理性こそが、人間に活力を与え、創造的活動を可能とする、こうした進歩主義者らの主張にチェスタトンは真っ向から反対する。

 

チェスタトンは、信仰と理性を対立させる考え方を拒否し、信仰があるからこそ初めて理性もまたありうるのだ、と主張した。

 

「現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる」(39頁)。

 

理性を働かせて進歩を目指す、ここまではいい、だが、働かせるべき理性が何らの基準を持つことがないのだとするなら?

 

善悪の基準を乗り超えようとし、懐疑に懐疑を重ねた結果、人間が行き着く先は狂気でしかないであろう。

 

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」(23頁)。

 

善悪を超えるものとしての「意志」を想定して「超人」になろうとしてみせたところで、人間には何も出来はしない。

 

なぜなら、「ある行動を望むとは、すなわちある限定を望むこと」であり、「何物かを選ぶとは、他に一切を捨てること」にほかならないからである。

 

常に何物かに縛られているのでなければ、真に人間に自由はない。

 

もしある人が、何の規制も受けつけまいと構えるようになったならば、恐らくその人は何の「意志」も働かせることが出来ないまま、無為に死んでいくこととなろう。

 

そのため、チェスタトンの次のような表現はあまりにも正鵠を射ている。

 

「絵の本質は額縁にある」(62頁)。

 

絵を描こうにも、一定の枠がないことには絵描きは表現することすら不可能であろう。

 

そして、前述したように、その額縁を与えてくれるのが「神秘主義」なのである。

 

「神秘」という正常な世界観を持った人間にとっては、「平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡」(73頁)であるということが了解されているのであり、彼にとっては、私たちが「平凡」であるとみなしていることの全てが「非凡」なものであるかのように思えるのである。

 

しかし、「非凡」なことにのみ価値を置こうとする「超人」には、この「平凡の非凡」などは理解出来るはずもない。

 

チェスタトンが再興を訴えるのは、科学や論理で頭を張り巡らせた理性と狂気の世界ではなく、「陽光に輝く常識の国」(78頁)なのだ。

 

そして、そのような「常識の国」を可能とするのは、歴史的に伝えられてきた「伝統」にほかならない。

 

なぜなら、人間が過去に遡及しながらでないと、現在も未来も考えることが出来ないということを踏まえれば自明のことではあるが、真に「正統」なるものは、歴史の中にしか見出せないからである。

 

連綿と流れる歴史の中に自己が立たされているのだと考えざるをえないのであれば、それを「おとぎの国」における冒険、つまり、「神秘」であると捉えるほうが人間にとっては、理性と論理しかない世界よりもはるかに自然に理解されうるであろう。

 

人間は、本性的に「絶対的なもの」や「永遠的なもの」を求めざるをえない動物なのであり、それを獲得するために是非とも必要となってくるのが、チェスタトンのいう「正統」の感覚であった。

 

 

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