民主主義社会では、政治家と知識人と国民が手を取り合っていかねばならない。
知識人の存在が民主主義社会では不可欠な理由としては、民主主義下での政治家は大衆にどうしても媚びを売らざるをえず、そうした些事に時間をとられるために大局を見失いがちであり、どのような方向に政治の舵をきるのかを述べることが出来ないということがあげられるだろう。
その点知識人は世論を恐れる必要がなく自由に物を考え自由に物を述べることが出来るという特権を持っているのである。
ただ、知識人はいったいどの程度の国民を相手にすべきなのであろうか。
全国民を開化・啓蒙することを目指すのは、その知識人の意見が正しければ正しいほど不可能となるであろうし、といって少数派にのみ語りかけても、多数派が世の中を抑えている現在においては、あまり功を奏さないと思われる。
私が考えるに、知識人はそれぞれ自己の中に真っ当な常識人を想定して、彼らを国民とみなすべきではないだろうか。
つまり、その想定の外にある人々は単なる負の意味を持つ大衆であると考えるのである。
そうすれば、知識人は少数派にのみ語りかけねばならないという境遇から脱却できるであろうし、大衆に迎合する必要性もなくなるであろう。
もちろん、そういった知識人の想定する常識人は常に少数派になってしまう可能性は排除できないし、同時に民衆の心を全く掴めない意見は効力を持たないという問題はあるのだが。
法的な意味での国民ではなく、真の意味での国民に、すなわち、自分の理性の限界をわきまえた常識人になりたいと思う。
知識人の存在が民主主義社会では不可欠な理由としては、民主主義下での政治家は大衆にどうしても媚びを売らざるをえず、そうした些事に時間をとられるために大局を見失いがちであり、どのような方向に政治の舵をきるのかを述べることが出来ないということがあげられるだろう。
その点知識人は世論を恐れる必要がなく自由に物を考え自由に物を述べることが出来るという特権を持っているのである。
ただ、知識人はいったいどの程度の国民を相手にすべきなのであろうか。
全国民を開化・啓蒙することを目指すのは、その知識人の意見が正しければ正しいほど不可能となるであろうし、といって少数派にのみ語りかけても、多数派が世の中を抑えている現在においては、あまり功を奏さないと思われる。
私が考えるに、知識人はそれぞれ自己の中に真っ当な常識人を想定して、彼らを国民とみなすべきではないだろうか。
つまり、その想定の外にある人々は単なる負の意味を持つ大衆であると考えるのである。
そうすれば、知識人は少数派にのみ語りかけねばならないという境遇から脱却できるであろうし、大衆に迎合する必要性もなくなるであろう。
もちろん、そういった知識人の想定する常識人は常に少数派になってしまう可能性は排除できないし、同時に民衆の心を全く掴めない意見は効力を持たないという問題はあるのだが。
法的な意味での国民ではなく、真の意味での国民に、すなわち、自分の理性の限界をわきまえた常識人になりたいと思う。
