2年前の今頃。。。

こいはどうしていいのかわからず

眠れず

ただただ、大好きな「水曜どうでしょう」を見ながら

リビングで毛布にくるまってました。



2年前の10月11日日曜日。

今でもハッキリ覚えている。

朝に、そういえばこの間お父さんに電話しようと思って忘れてた。。。

と思って、とりあえずお母さんに電話した。

この1週間まえにお父さんが透析を腹膜から血液にする手術で入院していた。

入院中はいつもお父さんが暇人だから病院に電話してあげていたのだけど

すっかり忘れてて。。。

お父さんの病室の直通番号を聞くためにお母さんに電話した。


丁度お母さんは従兄弟の3回忌に行く前で

直通番号は教えてくれのだけれど。。。

どうも今日はお父さんの体調が優れないから明日以降に電話して欲しいと言われた。

こいは、そっか。。。と思って了解して、掃除やら買物やらしました。

15時くらいだったかな?

今日は頑張ったからなぁ。と思ってハードカバーの小説を読みながら

ポテチとコーラという恐ろしい組み合わせを食べて、のんびりしていた。


そこへお母さんから電話があった。

どうしたんだろ?と思って出てみると。。。

お父さんが体調を崩して、今危篤状態だという。

担当のお医者さんがお休みで、代わりのお医者さんが言ってるのだけど

家族を呼んだほうがいいっていうの。。。

という。

こいには何がなんだかわからなかった。

お父さんが、危篤?家族を呼んだほうがいい?

ドラマみたいだった。

確かにお父さんの体調はここのところ良くなかったけれど

今入院しているのは血管の手術をするだけだったのだから。。。

お母さんも、この状況にかなり戸惑っているみたいで

担当のお医者さんが言ってるわけじゃないから、様子みてみるから

なにかあったら連絡するから。。。と。

こいも本当に本当に信じられないし、何かの間違いかと思ったので

仕事もあるし、突然休んで迷惑掛けられないから

とりあえず明日出勤して、上司に報告してから早退して帰るって言った。

だから、すぐには帰らなかった。

今でも本当に後悔している。

あのときに仕事なんてどうでもいい。

どうしてすぐに飛行機に乗って帰らなかったのか。

夕方だからいくらでも帰る飛行機はあったのに。


それから。。。

とりあえずご飯を食べた。

TVを見て、仲のいい職場のお友達に連絡をした。


夜、あれは何時だったかな?21時くらいだったかな?

お母さんからもう一度連絡がきた。

お父さんが本当に危ないという。

本当に本気で危ないらしい。

明日の便ですぐに帰ってきてと言われた。


そこで、本当にお父さんが死んでしまうのかもしれないと自覚した。

すぐに朝一番の飛行機を予約した。

すぐに予約が取れたのが本当に幸いだった。

荷造りもして、もうお父さんの死を覚悟したのか

以外に冷静で、ネットで喪服も注文した。

あとはお父さんの携帯にメールした。

そして、mixi日記にお父さんあてにメッセージを入力した。

もし、こいの近くに魂がいるのなら体に帰ってほしいと。。。

おとうさんに大好きだということ、いつも感謝していることを直接伝えたいから

頑張ってほしいということをどこにぶつけていいかわからなかったので

mixi日記につづった。


それから

いつお父さんが亡くなったと電話がきてしまうか

ビクビクしながら

電話がこないようにと祈りながら

毛布にくるまりながら

水曜どうでしょうで気を紛らわせて

一睡もできずに家をでる3時半まで待った。


4時に稲毛駅を出発するリムジンバスに乗りたかった。

家を出る前にタクシーを呼んで

3時半に家をでてタクシーに乗り込んだ。

何もしらないタクシーのおじさんは、朝早いね。どっか旅行?

なんてのんきに話しかけられたのも覚えている。

お父さんの死に目に間に合いたくて。

お父さんに直接思いを伝えたくて。

間に合って欲しくて。

そればっかりを祈った。

持っているお守りを全部握り締めてた。

飛行機にのって、新千歳について、JR乗り場まで急いだ。

JRの発車前に、職場に連絡をした。

電話をかわった上司が妙にさめた感じで電話に出たのも覚えている。

人がこんな状況なのに、よくそんなに冷たい感じで出れるなと思った。


9時半前だっただろうか

やっと手稲駅に到着した。

手稲駅まではお姉ちゃんが迎えにきてくれた。

こいはガラガラを引きながら走った。

お父さんに間に合いたいと思ったから。

病院内も走った。

お父さんの病室はエレベーターのすぐ横だった。

病室に入ったら

抑え切れなくて泣いた。

お父さんが、もう意識なくて。

管がいっぱいで、なんとか生きている状態だった。

言葉が出なくて、とにかく涙がいっぱい出て、お父さんっていうのが精一杯だった。

叔母さんが泣いちゃダメっていった。

まだ生きているのに泣いちゃダメって。

でも、お父さんの娘なのに。

叔父よりも叔母よりも従兄弟よりも早く駆けつけられなかった自分が悔しくて。

自分が千葉に住んでいることを悔やまずにはいられなかった。

そしてお父さんに言いたいこともいっぱいで

泣かずにはいられなかった。


そのときもまだ、こいは知らなかった。

本当は、とっくにお父さんは自力で生きてられなかったこと。

こいや、こいの叔父さんたちが生きているうちに

間に合えるように無理やり薬で生かされていた事を。

だからこいはお父さんの冷たくなった足とか手とかをさすり続けた。

どうにかして意識がもどらないかとずっと願った。


お父さんの足の裏は皮膚がひどいことになってた。

この1ヶ月前に丁度、長期休暇で帰ってきたとき

お父さんは病院から退院したばかりだった。

病院の乾燥した空気で足の裏のかさかさがひどくなって

皮がむけたりしてて、それを薬を塗ってあげたりしてたのだ。

それが1ヶ月たって、全然治ってなかったことに気づいた。

お父さんずっと辛かっただろうな、って思った。


それから、先生が何度かきて

まだ間に合ってない人がいるのか確認してた。

そこでこいも初めて、お父さんが無理やり生かされている事を知った。

それも本当に辛かった。

お父さんはずっと病気で生きていることも本当に辛かったのに。

死ぬときまで無理やり生かされてたのかと思ったら

死に目に間に合わなくても良かったから、もう楽にしたあげたかった。

もうお父さんは十分に頑張ったから。


こいが到着して1時間後くらいだろうか。。。

もう、いいということで、延命の薬は終わった。

あとはお父さんの体力次第で死ぬのをまつ状態だった。

そして、何分後かに息を引き取った。

10月12日永眠。

お父さん、2週間前に64歳になったばかりだった。


2週間前の9月30日に

お父さんに誕生日おめでとうの電話をしたのが最後だった。

そのときは確かに体調はよくなかった。

10月4日に大好きな小出恵介の握手会があるから楽しみだという

くだらない話をした。

お父さんも苦笑いで、お前は本当に好きが多いやつだなって言ってた。

そんなくだらない会話が最後だった。





2年前を思うと、本当に今でも色んな事を後悔する。

10月4日にお父さんに電話したけれど入院した日で。。。

その日でも翌日でも何故、すぐに病院に電話しなかったのか。

危篤だと最初に言われたときに、すぐに何も考えずに帰らなかったのか。

その日の夜にはまだ意識があったというから。


でも自分でも良かったと思うこともある。

透析を始めてから、きっとお父さんは長く生きられないと感じて

長期休暇でもただの週末でも

1年に理由をつけて何度も石狩に帰ったこと。

石狩と千葉。

本当に離れている。

電話とかメールとか、テレビ電話とかくらいでしか連絡が取れない。

簡単には帰れない距離。

だから帰れるときは何度も帰った。

後悔したくないから、年に5~6回は帰った。



こいは

危篤状態を知ってから飛行機に乗るまでの時間が

果てしなく長く感じた。

この何もできない時間が本当に辛かった。

お姉ちゃんは佐呂間に住んでて

千葉のこいと同じくらい帰るのに時間がかかるけれど

すぐに車で迎えたのが羨ましかった。

こんな思いはもう2度としたくなかった。

お母さんのときにこんな思いをまたするのは絶対イヤだった。

だから、お父さんが死んだその年の年末に職場の上司に

北海道に帰りたいと異動願いを出した。

それはその3ヵ月後にすぐに叶ったのが、なんだか運命的だった。





どうして今更こんなブログを書こうと思ったのか。

別に涙を誘いたいわけではない。

不幸な話をしたいわけでもない。

こいと同じ体験をしている人もいっぱいいる。

なんだか2年たってあの時を思い出してつづりたかった。

鮮明に覚えているものだなって。

でも、それよりも。。。とにかく。。。

これを読んだ人が、少しでも両親・家族を大事にしてくれたらと思った。

そして一番に言いたいのは

何かあったときには何も考えなくていい。

すぐに大事な人の所へ駆けつけたほうがいい!ということ。

まわりに迷惑がかかってもいい。

行かないで後悔するよりはマシ!

そして、両親と家族と少しでも過ごす時間を増やして欲しいと思う。

それも後悔してほしくない。


ながながなが。。。と綴ってしまった。

とにかく後悔はしないで下さい。