文覚(もんがく、保延 5年(1139年 ) - 建仁 3年7月21日 (1203年 8月29日 ))は、平安時代 末期から鎌倉時代 初期にかけての武士 ・真言宗 の僧 。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高尾の聖とも呼ばれる。弟子に上覚 、孫弟子に明恵 らがいる摂津源氏 傘下の武士団 である渡辺党 ・遠藤氏 の出身であり、北面武士 として鳥羽天皇 の皇女 統子内親王 (上西門院)に仕えていたが、19才で出家 した。
京都高尾山神護寺 の再興を後白河天皇 に強訴 したため、渡辺党の棟梁・源頼政 の知行国であった伊豆国 に配流される(当時は頼政の子源仲綱 が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝 と知遇を得る。 のちに頼朝が平氏 や奥州藤原氏 を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺 [1] 、高野山 大塔、東大寺[2] 、江の島 弁財天 [3] など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。 また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛 の遺児六代 の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する[4] 。
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件 に連座して源通親 に佐渡国 へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久 2年(1205年 )、後鳥羽上皇 に謀反の疑いをかけられ、対馬国 へ流罪となる途中、鎮西で客死した[5] 。