とある郊外の駅。ホームのベンチに俺は腰掛けている。郊外といってもベッドタウンの駅なので、朝晩は通勤客でそこそこ混雑している。だがこの時間、人影はほとんどない。
俺はひとりでベンチに腰掛けている。口と眉毛を八の字にし、両手の指を組んだり解いたりしている。
俺は困っている。
昨日の俺は景気が良かった。まず、道端で財布を拾った。財布の中には諭吉が10人収まっていた。俺はその金を掴んで行きつけの場末た飲み屋へ向かった。ツケをきれいさっぱり払って、一番高いボトルを入れた。カウンターのおやじは、いつも噛み潰してる苦虫をすべて吐き出したような卑屈な笑いを顔に張り付かせ、醤油まみれの前かけでボトルの埃を拭った。
湿った南京豆を肴に飲んでたら、酔狂な紳士に絡まれた。こんな汚ねえ店に似つかわしくない、きちんとした身なりをしている。しゃれたパナマ帽までかぶっていた。変なヤツだったが、奢ってくれると言うので紳士に格上げしてやった。なんでも、俺が死んだ息子に似てるんだと言う。実にありふれた理由だったが、タダ酒の断り方を俺は知らなかった。
話をグダグダ聞いていると、紳士は次の店に行こうと立ち上がった。繰り返すが、俺はタダ酒の断り方を知らないので、のこのことあとをついていった。紳士はとあるビルの地下へ降りて、表札が出ていないドアにピカピカ光るカードかざした。会員制の、本物の高級バーってやつだ。俺は安い酒を(それでもあの店ではいちばん高い酒だが)しこたま飲んで頭の回路が麻痺していたので、出てきたいかにも高そうな酒を紳士の促すままにガブガブと飲んだ。そのうち、紳士はなにやら他の客とひそひそ話をしはじめた。俺は別にどうでもいいので、ひとりで飲み続けた。
ふと気づくと、となりに女が座っていた。長い髪でボディラインがきっちりとわかる、派手な色の服を着ていた。いつの間にか、俺は女と意気投合していたらしい。女がうるんだ目で俺を見ていた。
もう触ってもいいだろうと女に近づいた時、バーテンダーが閉店だと告げた。周りを見ると、客は俺と女だけだった。紳士の姿もない。支払いは済んでいるということだったので、俺は女と店を出た。女はタクシーを止めてひとりで乗り込んだ。俺は心のなかで舌打ちをしたが、それを見透かしたように女が名刺を差し出した。〈カーミラ〉という名前と電話番号だけ書かれた、紫の名刺だった。俺は女を乗せたタクシーを見送り、名刺を財布のいちばん奥にしまった。
さて、今日の俺は最悪だ。かいつまんで言うと競艇で昨日拾った金の半分をスッた。ここで止められるのが俺の偉いところだ。残りはパチンコで取り返そうと競艇場を出た。とりあえず景気づけに一杯飲むことにしたが、初めての店だったので案の定ぼったくられた。ゴネてると奥からシュワルツネッガーみたいなゴツいやつが出てきて、ボコボコにされた。金はすべて持っていかれた。財布は女の名刺ごとどこかへすっ飛んでいった。
なんだかめんどくせぇと思い、ポケットに残っていた小銭で一番安い切符を買ってホームで電車を待っている。それがいまの俺だ。
でも、困ってるのは金が一銭もないとかもう二度とあの女と会えないとか、そんな理由じゃない。ホームにチカチカと瞬く蛍光灯のせいだ。青いフィルムが貼ってある。青っちろい光。俺は電車に飛び込もうと思ってここに座ってる。だが、もう10本近く通り過ぎる急行を見送ってた。あの青い光が邪魔して飛び込めないんだ。さっき駅員に聞いちまったせいで。
「なんで蛍光灯が青いのかって?そりゃあんた、電車に飛び込もうって奴を思いとどまらせるためだよ。青い光は心を落ち着かせて、死のうって奴を我に返すんだと。オレは知らねえよ。えらいセンセーが考えたんだろうさ」
そんなわけで、俺はベンチに座ったまんまだった。
俺の心が落ち着いたわけじゃないが、なんだか青い光がうっとおしい。次だ、次が緑のやつなら飛び込もう。なに、白いやつだってかまわないが、どうせやるなら緑だ。緑に赤い血飛沫なんて、なんだかモダンじゃねえか。
ふと気配を感じて横を見ると、サラリーマンが立ってる。アイロンの効いたパリッとしたワイシャツに、ピシッと線の入ったズボン。ピカピカと青白い光を反射している革靴。まだ9月だから上着は着てないが、あんたその儲け方俺にも教えてくれよ?って声かけたくなる風の男だ。こんな身なりをする世界に生まれてたら、俺もうらぶれたゴミみたいな人生じゃなかったんだろうな。電車に飛び込もうだなんて思わなかったろうな。くそが。次の電車きた。ちっ、白い電車だよ。特別快速だけど白いからおあずけだよ。あーあ。
とその時、サラリーマンがゆらりと揺れたかと思うともう電車に吸い込まれていた。
ちょっとだけ驚いた俺はベンチから立ち上がり、まずは電車の行方を追った。かなりの速度で走っていた電車は、急停車はしたもののホームのだいぶ先に止まっていた。
俺は次に、線路を覗き込んだ。こちらは予想通り、サラリーマンが大小の骸に成り下がり散らばってる。しばらく眺めていると目が慣れたのか、線路の光が届いていないところもぼんやりと見えてきた。骸の間に財布が転がってた。俺は線路に降りると、財布を手に取った。財布からは血が滴り落ちていた。財布を開くと、札束がぎっしり詰まっていた。
俺はしばらくぼうっとたたずんでいたが、血まみれの手で札束を掴んだ。掴んだところは血が付いたが、それ以外の箇所は汚れひとつもなくきれいだった。
駅員の足音が聞こえた。俺は札束を尻ポケットにねじ込み、ホームへの縁に手をかけよじ登った。にわかに騒がしくなったホームをあとに、俺は改札へ向かった。ふと見上げると、蛍光灯はたくさんの血に塗れていた。青い光はもう見えなかった。
俺は階段を昇りながら考える。こういう時、買った切符で改札って通れるんだっけ。駅員が全員現場に行って改札にいなければラッキーだな。まだジクジクと膿を出している手首の傷を包帯の上から掻きながら俺は歩いた。
<完>