おじの借金は、その妻であるおばの死により親族に明るみになりました。
おばは病死です。急死。ゴミ屋敷となった自宅で亡くなりました。
その自宅は、おじの父親(私の祖父)が土地を買い、建てた家でした。
忘れもしません、引っ越しのときです。結婚と同時にその家に移り住んだおじ夫婦。
引っ越しをお手伝いに父母とおとずれました、私が小学低学年の頃です。
新しい新築の匂いであふれ、おばの嫁入り道具の婚礼タンスがどんっとおかれて
いました。着物をいくつか揃えたようで和ダンスに着物用の桐ダンスもあったのを
母が話していました。
同居している私の母にすれば、二人住まいが羨ましかったのだと思います。
新築の家をおばはあれこれ文句を言っているのが聞こえました。
間取りが、、、この壁が、、、このおばからは否定的な意見が日頃から聞こえていました。
あー言えば、こう言う、、、反論は一人前。
結婚の時から糖尿病(かなりの大デブ)を患っていたようです。子どもは欲したのか
そうでなかったかは不明ですが子がない夫婦です。
でも、子どもの声を嫌うようなことを口にしていたこともあったので、欲しくはなかったのかな。
今となっては、子がいないのが幸いに思います。
結婚当初は私達をかわいがってくれていました、ケンタッキーを始めて食べたのはおばのお土産
だったし、手作りのクッキーやケーキをくれたもの記憶のなかではおばが初めての人だったとおもいます。
今から思えば、糖尿病になる食生活をよく見かけました。炭酸飲料を飲ませてもらっていなかった私たちに
コーラを買ってきたひとでもありました。親族で食事する席で和食にコーラでしたし。
ペットボトルの大きいコーラ1本は自分専用のように抱えていました。
若い頃から精神病もあったとか。高校卒業後は働きにでずに家事手伝いをしていたと。
意気揚々としていることもあれば、どよーんとげんなりしていることもよくあったなぁと。
糖尿病の持病があるにしては、食生活に気に掛けたものを作ることはなかったようです。
食のうんちくはさんざん聞きましたけど。
仕事は農業をしていました。もともとは祖父がしていた分野を継いだのです。
正確には継がされたのです。農業は二人の性にあっていなかったのだと思います。
自己管理が出来ない二人でしたから、野菜類の生育に合わせ、朝早い作業だったり、地道な
作業を熱心に取り組まなかったツケで、植えた苗を無駄にしたことは何度もありました。
その頃は祖父も同じ仕事をしていたので、大正生まれの厳しい祖父から仕事を命じられても
そのことが出来ずにいてジジの怒りを買うことは何度も。
仕事をしないことを(ナマケていること)を注意されると猛烈に、きつい口調で
言い返すおばだったようです。父が言うくらいですから余程です。
おじの農業はおじ名義ではありませんでした。私の父名義でした。農協のいろいろな
関係からと思いますが。それが良くなかったと思います。
おじが野菜を作った売上がはいるのは父名義、おじの野菜の苗を買ったお金は父名義の
口座から支払いします。
収支の詳しくはおじは知らなかったのだろうと。
おじのする農業はいろいろな物に手を出していました、野菜、家畜、花、果樹、、、
それらのたびに出来る負債は父名義です。
父は父で農業自営をしていましたけど、そこの儲けを取っていかれたと母は言いました。
あるときに、何百万もの負債を被ったことがあり、母が怒り心頭だった日を今も
覚えています。 おじおばがうちを訪れ、母に頭を下げていました。
このやり取りはなんだろうと、高校生の私はみていました。
その後に母からおじおばが大きな借金を作ったのだと聞きました。
母の悔しさを思うと心がいたみます。
なんどもなんどもおじの作る負債の片をつけたのは父です、そして、父に言えない負債は
都会に住むもう一人の兄弟に金銭援助を依頼していたといいます。
これはジジが依頼していました。
働き者でないふたりが夫婦になったのがそもそも間違いだったと思います。
見合い結婚といいますから、紹介人もなかなかのひとです。
おじとおばは半ば強制的に農業を辞めさせられました。マイナス収支ばかりで父が
辞めさせました。そのあとは父自営する農業法人に入りました。
農業をやめてからのおばは一切働かず、持病が悪化したようです。
希死念慮が強くなり、包丁をもつと自分を刺しそうになる、と台所仕事を一切をせず、
食事はスーパーで買ったものしか食べなくなったと。
それはお金が続かないはず。
自宅にこもるようになり、BSやらネットテレビを契約しては1日中テレビの前に
いるような生活。
テレビショッピングにはまり購入したであろうアクセサリーは部屋に転がっていました。
封を開けられもせず。あのデカいからだのおばには到底似合わないアクセサリー類でした。
これらも借金の要素でしょう。
亡くなったあとの家にいきましたが、あのようなゴミ屋敷に入ったのは初めてです。
当然、土足です。
異様な感覚でした。つい数日前まで人が生活していたとは思えない空間でした。
黒く、暗く、狭く、臭い空間で、ここで呼吸をしてはいけないような感覚になりました。
家を出てからは体中がかゆいような感覚にもなりました。
暗いというよりも何もかもが黒かった。午前中の薄曇りでしたけど、外は陽の光があるのに
部屋の中は黒かった。夕方のようにどんよりと黒かったのです。
2階には2部屋、1階には3部屋あったと思います。2階にあがる階段はゴミで
塞がれ、玄関から進める部屋は1部屋のみ。ほかの部屋への通路がゴミで埋め尽くされ、
先へ進めません。のちに思いましたけど、トイレにいく通路もふさがっていましたが、おばはどうして
いたのでしょうか。
唯一進める部屋にベッドらしきものが入口を挟んで2つありました。
ほんとうにベッドなのかはわかりません。黒く、いろいろなものが積まれ、人が寝ていたであろう
丸い形が跡となって掘られているような場所が両脇に2つありました。
クマが冬眠するような洞穴のような。
部屋の照明は一切点灯しなかった。ライトスタンドもありませんでした。
部屋に入ってスマホのライトをつけた私でしたが、おじおばも同じようにスマホのライトとテレビの
あかりで生活していたのかもしれません。
足元にはさまざまなものがあります。茶色い液体の入ったペットボトルは何本も転がっていました。
割り箸、惣菜の空、ちらし、何が足元に埋まっているのか不明です、フローリングの床はふわふわしていました。
ゴミやらで人が動き回るスペースはほとんどなく、部屋に入るとすぐにベッドに腰掛ける
生活だったと想像します。
重要な書類などを探すためとおばの棺に入れるような思い出の服などを探しましたが、そんなものは
微塵もない部屋でした。
おじに棺に入れてあげたいようなものはあの部屋にないのか?と聞きましたが、首をひねって
ないと思うけど、、といった言葉は嘘のない言葉でした。
せめて、写真に一枚、普段来ていたであろう服、嫁入り道具で見た桐ダンスにあるであろう着物を
と考えていましたが、無駄に終わりました。ゴミに阻まれ、古い記憶の中の桐ダンスまで到達出来なかった。
棺にいれるものが何もなく、せめてもと、しまむらできれいめのブラウスとスカートを買い
棺に入れました。
おばはおば実家から疎まれていたんだろうな、、と感じられるようなお通夜でした。
おばの人生をどう表現すればよいのか言葉が見つかりません。結婚相手がおじでなければ
もっと幸せになっていたんじゃないかとも思います。
ですが、相手がおじだから夫婦としてやってこれたのかもとも。
ただ、自立できない二人だったのは確かなところと思うので、やはり、そうでない二人だったかも
しれません。
哀れむ気持ちはゼロでないけど、今の状況を作った本人であるので、そのことは許すことが出来ない
と今でも思います。
借金の判明はまたのちに。