いきなり変なことを書くようだが、

今年は

“無意識”に働いてもらおう

と思う。

私の言う、“無意識”とは、

言語化される以前の感覚の世界のこと

と言えばいいのだろうか。

 

そこに確実にあることは自覚できるが、

あえて言葉を与えない状態のもの。


かすかな振動であったり、

温度の上下であったり、

ほんの瞬きを誘う程度の光量の変化

であったり、

そういったレベルでキャッチしている

もののこと。


人の変化や、感じる違和感、

ざわざわふわふわした蠢きを

固定して安心せず、

寄り添って正解にとらえ続けるには、

言葉では、いろんな意味で

コスパが悪い。


早いうちから言葉を与えよう

とすることは、

つまり、定義を与えることで、


この世にある何かと同じであろうとしたり

人に伝えるためにそちら側に寄せよう

としたりしいるうちに、


その本来の姿、豊かさを失い、

(あるいは思考停止を引き寄せ)

どんどんやせ細っていくと感じるのだ。

 

揺らぎ、変化し、

まだあらゆる方向に可能性のある

その生命体の卵?みたいなものが

その状態にある時間を

できるだけ長く持つ。

 

いったん言葉を与えてもいいが、

またすぐ、言葉以前に戻して

体という無意識全体でとらえ直す作業

をしよう。

 

そして、

現実の世界でそれをこねる段になったら、 


(誰かの常識の中だけでしぼんだ

 それに鞭打つのではなく)

それ自体に内在する、

はち切れんばかりの醸造されたエネルギー

に導かれて、

私はただ手を添えるだけ、

という感じで向き合う。

 

手を加えて、

それをコントロールするのではなく、

ただそこに立ち会うだけ。

 

そのものの本来のあるべき場所

に見送るのが私の仕事。

 

(私自身のことでも、

 他者のことであっても、同じ。)

 

余計なことをしない。

(私の意識が知っている

小さな世界でそれをこねくり回さない。)


そして、

満を持して“それ自体”に訪れるはずの

“その時”を見逃さないようにしよう。

 

私の場合、

意識でかかえられるものは知れているが、

この領域なら、消耗も少なく、

同時並行的に卵を抱えることができそうだ。

 

たくさんの卵がかえるといいな。