月一おしゃべりカフェで


https://ameblo.jp/rakubi-coco/entry-12621566775.html



「責める」をテーマにみんなで話をする

と決まったときに、

私が「相手責めをしない理由」を考えていたら、

思い当たることがありましたので、書いてみます。


責めること、責められること

についての私の原体験は

幼いころからずっと見てきた両親の口喧嘩です。


いつもちょっとした言い合いから

人格をまるごと否定する言葉の投げ合いに

あっという間に発展。

いくら声を枯らしても全く噛み合わないまま

その分傷ついた二人が残る。

そしてお互い自分こそが我慢している

と信じてやまないまま

次の喧嘩へとつながる火種をかかえて暮らし、

いつの間にかまた喧嘩するのです。

 


いったん責め合いが始まると、

相手が心から血を流すまで口撃をやめないし、

その後母は必ず体調不良になるし、

父も心の奥の方がぐったりしてみえました。



ケンカという空襲の後には、漏れなく

負傷した人が転がる焼け野原がついてくるもの。

 

 

そんなわけで、

私にとっての「責める」という行為は

相手を傷つけるためにするもので、

もし「責め合い」に発展したら、

相手により深い傷を与えることばかり

考える道にはまり込み、

結果、互いを鬼の形相に変え、

見たくないものを見ることになるし、

いくら力を注いでも全く前に進めないどころか、

余計に深くはまり込んでしまうというものでした。


 

ただ、今にして父母のことを思えば、

お互いに必死だからこそ声を枯らし、

自分の本気を伝えたいからこそ、

ひどい言葉をわざと浴びせたりしたのだと思います。



しかもそれを繰り返し続けたということは、

無意識のうちでしょうが、

とにかく共に居たかった、

関わり合うということをあきらめなかった、

あきらめきれないエネルギーにあふれた二人

だったんだな、と感動すら覚えます。

 


ただ、私にとっては 

前述のようなとらえ方でしたので、

自分が他者から責められた時には、


「責められて悲しい」

「責められるという現象が起きてしまった」

うなだれることはあっても、

決して「悪いのはそっちでしょ」などという言葉

は口をついて出ないし、

心の中でも出なくなっていたと思います。

 

普通なら、その場の防衛本能としての

やり返す反応がでるのが自然だと思います。


だけど、そのあとの「戦争」のむごさを

とにかく避けたいという染み付いた思いが

勝つのです。


 

その代わり、どうすればいいんだろう?

何をすればこの現象は納められるのだろう?

と考える癖がつきました。



しかし、それには重大な問題がありました。



自分のことはそっちのけだった、

という事です。



自分も世界の一部なのに、自分は除外して、

目の前の他者の怒りだけを対象として

扱おうとしてきた、ということです。


 

そういえば私は、

自分の感情が生き生きと感じられない、

少し遠いところで生きているような

乖離した感じがあるなあ、と思っていた時期が

長かったのですが、

それはこういうところからきていたのだろう、

と思います。



今ではその感覚は解消しているのですが、

その辺りのことは、長いので続きはまた次回?

かな。