優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに


米津玄師さんの『優しい人』
という曲を夕方のキッチンで聴いてたら、
最後のフレーズを聞きつけた9歳娘が
通りすがりに言う。

「正しい人なんていないのにね。
 どうなりたいんだろうね、一体?」

   正しい人なんていないって思うんだ。

「だって、人間にはどんな人にも
 穴ってもんがあるんよ。
 どこか抜けているものなの、誰でも」

   へえ、そうか。

「ほら、例えばさ、
 よかれと思って言ったことが、
 誰かを怒らせることもあるやん、
 完璧なんてないんよ」


  なるほど。 
  そういうのは正しくないってことなんやね。
  
思いがけず深い話をしてきた彼女に
もう少し聞いてみようと口を開きかけたときに 
不意に横から13歳娘が入ってきた。


「この歌詞を書いた人は、
 正しい人なんていないってことは、
 百も承知で何かを表現したいのだよ、きっと」

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まるでプチ哲学の時間でした。

落ち着いてもっと話を聞きたかったけど、
夕方の家族は忙しないので、
あっという間に解散(笑)

きっと9歳の頭ん中には、
何か究極の「正しさ」がある。
だけど、それは実現出来ないとか、
あり得ないって思ってるんだろう。

13歳は、既に「正しい」ってことを放棄してそう。それでも「正しい」に引き寄せられる人間というものの姿に何かを感じているのかも知れない。

まあ、どちらもゆっくり聞いてみないとわからないけどね。

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私自身は、この歌詞をずっと聞いていると、

  優しいこと→正しいこと
  優しくなれない自分は→いけない存在

って結びついている時の苦しさ
に思いを馳せてしまう。

そもそも
優しいって何?ってのもあるし、
優しいことは正しいことだ、
というのが果たして正しいのか?
という突っ込みもちろんあるけど、

そういう整理をしたいわけじゃなく、

例えば、この歌のように

自分の心惹かれる人、
こっちを向いて欲しいと願う人が
眩しいほどに優しく、
それが神々しいほどに「正しく」見えた時、
こんな風に囚われてしまうことになる 
のかもしれないと感じたのです。


幸か不幸か私にはそういう経験はないし、
9歳の言葉を借りるなら、
穴の無い人間はいないと思っています。
穴というのが引っかかるのなら、
凸凹していない人間なんていないっていう事。
というか、凸凹してるから、人間なんだ、
と思っているのかな。

だけど、もし子供の頃や、多感な時期に、
こういう雷に打たれるような出会いをしてしまって、息苦しい「優しさ」やら「正しさ」が
心に埋め込まれてしまったら、、、

その人が欲しい、その人に愛されたい、
という気持ちと、
優しくもない、正しくもない自分への責め
は簡単に合体しちゃっていたかもしれない。

そして、拗らせた果ては、
その人しか見えなくてどんどん視野も狭くなるし
恋は盲目ってだけならまだしも、
「正しい」っていう抜けない刺みたいなものに
そのあともずっと苛まれて、
自分を責めるくせがついてしまいそうな気がする。
いや、責めるくせというヌルいもんじゃなく、
責めることで愛をつなぎとめられると
どこかで信じて自動的に振る舞ってしまう感じかな。


そうそう、こんなフレーズもある。


強く叩いて 「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して


とにかく、こっちに向いて欲しい。
自分はあの子になりたいけどなれないのなら、と
気を引くためにもっと悪い子を演じているうちに
だんだん自分も分からなくなっていきそう。
そして、
叱ってもらえるだけで嬉しい、
と同時に自分を責める、という深みにはまる。


聞くたびに登場人物の心のひだが
体感とともに皮膚一枚で感じられる気がします。
短い曲なのに、
ここまで広がりと深みを感じさせられた歌は
久しぶりでした。
米津さんの表現力に改めて感動しました。


この曲には他にも衝撃的なフレーズが
たくさんあって、
ここには抜粋しなかった「あの子」の背景も
いろいろあるので、
聞く人の数だけ、聞き入り方があるだろうなあ、
と感じます。


ちなみに、メロディや楽曲は
ものすごく、美しいです。
かなしいほどに美しい、とはこういうのを
いうのかもしれません。

よかったら聞いてみてください。