【しなやか自分軸リアル実践会】
5月のお題は「空気」でした。



「空気読めよ」

「空気読めないもん、私。」

「あいつ、空気読めないよな。全く。」

「空気読みすぎて、疲れるんです。」



空気、って一体何でしょう?



シンプルに言ってしまえば、



     「言葉で表現されない何か」 



そして、たいていは

   「言葉で表現しないままに、
    守ってほしいと希望されている何か。」

ではないでしょうか?


「空気読んでほしい」人は
何かを察してほしいんだけど、
それをぜひとも言葉で表現したくない。



そこにはどんな事情・欲求があるのだろうか?
言葉に出してしまうと、まずい理由って
そもそも何だろう。



例えば、
前日までに各方面に根回しの済んでいる
議題について
当日は儀式的な決を待つばかりだったところ、
質疑応答でそもそも論的な質問をつっこむ人
がいたら、

「空気読めよ」ってなりがち。


だけど、
「質問しないでほしい」とは言えない。


会議では議論を尽くすべきで、
出席者は質問する権利があるから。


つまり、正論には勝てないのが
目に見えているから、
口に出して、 
白日の下にさらすわけにはいかない。


建前と本音があって、
こっそり本音を通したいってところかな。


「空気読めよ」ってのは、
ちょっと後ろめたい言葉でもあるんだろうな。



あと、

「こんな子供じみたお願い、言いにくいな。」

「恥ずかしいな。」

「大人げないって責められそうだな。」

と思いつつ、

でも建前通りには動けない、
受け入れたくない場合も


言葉に表さずに態度や表情で伝えようと
「空気」を醸し出して伝えようとしますよね。


これも仕組み的には同じかな。


自分の中だけの正論かもしれないけど、
とにかく自分が抱えている
(〇〇でなければならない、べき)
みたいなものに照らすと、
とても口に出せない。



しかも、それでもなお、読んで欲しい自分
がそこには隠れている。


そんな自分を言葉にして表現したあとに
「何言ってんねん!」
とばさっと切られたら、
自分自身が否定されたみたいで
ショックなんですよね。


だからこそ、なおのこと、
言葉で表現するのは回避したくなってしまう。

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いずれにしろ、

とにかく読んで欲しい自分がそこにいる。
プラス
表現したくない理由がある。

ってこと。


ただ、


空気の読めない人に対して
いくら喉を枯らして「察してくれ!!」って
叫んでも、相手を変えるのは難しいですよね。

わからんもんは、わからん💦


この世界には、 
読める人、読めない人がどうしようもなくいる。


紛れもない事実。


でも、それ以前に、
もうそういう次元では
済まないような気もします。


つまり、


昔は共同体も仲間内で済んでいたから、
空気読んでもらえる確率は高かった。


でも、価値観が多様なこの現代において、
隣の席に座った人が
仲間内である確率はどんどん低くなっている。


ネット社会が進んで、
手にしているメディアもバラバラで、
家族だって、会社だって、ご近所さんだって
違うものを見ているし、
違う背景や、経験をもった人たちの集まり
なわけです。

単なるジェネレーションギャップでも、すまない。


空気読めよ!って心で叫んで
ストレスがたまることは、多分どんどん増える
と思います。


ならば、もう、それを超えて、
互いの真意を表現し合いながら
個々人が進んでいく方法を身につけるのが
大切なんやろうな、と改めて感じました。