人々が感情で盛り上がっているとき、

よい話にしても怖い話にしても。

鈍いというか乾いた自分が

子供のころからいたように思う。

 

もとの変化から伝わって発生した情動の波動に、

みんなのエネルギーが重みを加えて、

さらに新たな動きを発生させ、

そのエネルギーが使い切られるまでは終わらない。


それは決まった儀式のようにも見えたし、

誰も説明してくれるようなことではなかった。

 

その横で、空っぽで立ち尽くし、

時には恥じ入ることと感じ、

どこかに消え入りたいと思っても

決して居なくならない自分という塊。


冷たいやつという言葉を背中に感じながら、

別の涙を、ずいぶん後になって、

誰も知らないことろで流して、またおののく。


 

ようやく今になって、自分のことが分かってきて、

それは互いにとって仕方のないことだとわかった。

同じような物理法則には従っていないだけのことだ。

陽子だか電子だかの数の違いみたいなことなのだ。


 

あるかないか、それだけのこと。

分かり合えないけれど、そこに存在しあっている。

そこから始まることがあるはずだ。

 


ただ、



目に見えないからと言って、

信じる者は救われるとも思わないし、

自分の目で確かめるといったって、

自分というフィルターの限界は超えられない。

 


あなたがそこにいる。そこにいない。

ウイルスがそこにいる、そこにいない。

 

それは、当たり前だけど

私の想いによって操作できるものでもなく、

行動の有無によって確率を上げられるものに

過ぎないということ。



だからこそ、黙々とやる。


 

信じているのは、

そういう、ちっぽけな自分が

今この瞬間は、生きているということ、

というのはあるような気がする。