悲しんだり、喜んだり
沈んだり、上がったり、
疲れたり、気力みなぎったり、
寝たり、起きたり、
口をつぐんだと思ったら、
マシンガンのように話したり、


自分の状態というのは、
多様だし、予測しきれず、一貫性もないし、
無意識のうちに蠢き、
把握するのは大抵時差がある。


それを、


コントロールしたい、
論理的に把握したい、
理性の命ずる通りにいたい、
などと願い、


失敗しては、人並みに
意識の世界で反省とやらをしてみる、
なんてことを、していたこともありました。


だけど、


それはまるで、
躾けられない子供を大声で説教することで、
疲れはするけど、
同時に頑張っている自分に満足感もある、


そんなウザい大人にも似ているようで、
イヤだなあと思うようになりました。


自分も、生きとし生けるものの仲間で、
いずれは土に還るものならば、


自然と同じで、
でっかい大地や気の遠くなる謎だらけの宇宙
みたいなものと同じように扱う方が
当たり、なんじゃないかな、


と思うようになったわけです。



天体なら、まず観測しなければならない。
地球なら、まず知らなければならない。
気象なら、まずデータをとらなければならない。
泣く赤ん坊なら、
不快の原因はいろいろ探して、
いろいろ試してみなければわからない。


自分だって、
意識以外は自然の一部なのだから、
観察してやらなければ始まらない。


そして、
観察、の中には、
感じる、という直接のデータの収集が
当然ながら最重要になると思うのです。


痛いだの、暑いだの、息苦しいだの、
胸がつまるだの、直視できないだの、
お腹いっぱいだの、何か物足りないだの


そういった自分で直接収集できる反応を
真摯に収集するしか、
自分という自然とやっていくことは
出来ないんじゃないだろうか。


っていうか、
そこにしか情報源がないのに、
それを理想の自分とは違うとして、
無かったことにして、


あーなれ、こーなれ、
と命令ばかりして



挙句に大反乱起こされて、病気に倒れても、


災害の前に立ち尽くすような謙虚さは
一ミリも持てずに、


やっぱり自分を否定し続けてきた過去の自分は、


自分だけは、自然の一部ではなく、
機械か神(?)だと思っていたみたいで、



今となっては、滑稽で仕方がないです。^^;