人は何かを見て、聞いて
いろいろと見立てる。


これは、こういうことじゃないか?
これなら、あれと似ているから、
きっとあーなんだよ、


などと。 


それは、事物人に名前を与えることと似ている。


名前を与えるとは、分類することで、
分類とは、属性でくくるということで、
何かが、分類できると、
人はそのものを把握したと思えて
ひとまず安心する。


だから、


問題は分類できない時におこる。


得体のしれないものが、一番こわい。


まず戸惑い、いらつく。


次は、なんとか何かの分類に押し込もうとする。


そのうち、それもかなわないと思うと、
はじめに観ていたはずの事実を捻じ曲げて
分類しにかかる。


「あんなこと言っていたけど、それが嘘なのよ」
「あーみえたけど、本当は違うのよ」
(そー考えれば、スッキリ決着するわ)


観察して、見て聞いていたはずの事実とやらは、
とてもとても軽い。


自分のお眼鏡にかなう、
ということに比べれば
いつだって風前のともし火。


それほどまでに、


世界が自分のイメージ通りでないと、 
落ち着かないのだ。


分からないまま、に耐えきれない。


(分からない、というだけなのに)


 そもそも存在には、
無限のバリエーションがあるというのに、


たかだか、自分の生きてきた人生で
知りえた分類、名前の数に、


限られた他人か教えてくれた、
限られた名前の数に、


そんな手数の中に、


人は世界を押し込めて
「理解」したことにしようとする。


そして、悲しいことに、


自分では決して経験できないもの、


例えば、


「他者の心」
「他者の身体の痛み」
「他者の心の痛み」
を「無い」として
世界を把握しようとすらする。


(自分のそれ、すら、無いとすることも)


逆に言えば、
自分には経験できない、

あるいは、

目には見えない触れないものだから、


頭の狭い世界のなかでは
一番握りつぶしやすいのだと思う。