「自分を許す」
って、どういうことなんでしょうか?

最近は自分では使わないフレーズだなあ
と思いながら、
自分の昔のブログ記事を読むと、

「料理を出来ない自分を許す。」
と口に出して、肩の荷が下りたり、

「嫌なことはイヤって言ってもいい」
と自分に言いながら、
実際にそうしたりしていた記述がありました。

あの頃は、そうする必要があったんだろうな、
とふと思いました。

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そもそも考えてみれば、

自分が許そうが、許すまいが、
私は料理が下手くそだし、
イヤと感じていることはイヤなんです(笑)
何にも変わらないはずです。


ということは、


現にあるものを、ダメだ、とジャッジして、
自分の中で避けて隠蔽しようとしていて、


「許す」ことで、その封印を解いたり、
表に出したってことかな、と思います。


つまり、存在を認めたってことです。


そこにある感覚や事実から目を背けずに
「あるね」とフラットに正視した、

ということなんです。


いずれは、


私が料理出来ないことの良い点
もあとから視野に入ってくるかもしれないけど、
(子供が私に頼らず料理始めるかもしれない、とか、
私も簡単で美味しい料理探すことに罪悪感がなくなって、
毎日楽しくなるとか)



それは後のこと。


兎にも角にも、
今イヤなんだ、○○出来ないんだ、
という現状把握。 


もっと言うと、
現状を意識にはっきりのぼらせるということ。

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許す、以前は、
現状をジャッジしてダメ出しして
そんな醜い自分を自分の意識から
取り除こうとしてきたんだけど、


でも、あるものはある。


意識がなんと言おうと、ある。


だから、
1人の中で、
頭と身体が喧嘩していたんやと思います。


これが長引いたり、
意識の力が強くなり過ぎたら、


感覚がおかしくなったり、
痛みが麻痺したり、
イヤが分からなくなったり、
挙句、病気になったりするのも無理はない。


私自身、今もボイトレしながら、
身体から不要な力を抜くのに
悪戦苦闘しているけど、


これも、力が入っていることさえ、
姿勢がひん曲がっていることさえ、
気づかないところからの出発なわけで、


逆に言うと、
自分の自然体を、
意識がどれだけひん曲げてきたかってこと
に日々愕然としています(^_^;)

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「自分を許す」というフレーズ
を今使わない理由は、


新しいジャッジ
が入っているように聞こえるからだと思います。 


料理が出来ないことを良しとジャッジする、とか
イヤな状態を良し、ということにするとか
いう、新しいジャッジを連想してしまうのです。



だけど、


初めのうちは、
どうしたって、ジャッジをジャッジでやり返す
ことが、きっと必要だったのです。


オギャーと生まれた後に
たくさん入ってきた他人軸に対抗するために、
いったん真逆のジャッジを導入する必要
があったんだろうと思います。


理屈を、とりあえず理屈で黙らせる感じ。


これは、今まで
一生懸命考えて考えて頑張ってきたからこそ、の反応だし、
理屈本人からしたら、至極当然。


でも、いずれは、
自らの内から湧き出る感覚を感じていかないと、
ただのジャッジ合戦で終わってしまう。


料理するのがいいのか、出来なくてもいいのか、
出来ない方がいいのか、ある程度いいのか、
どの程度悪いのか、みたく、


ただ頭の中のおしゃべりが増えただけに
なったら、エンドレスマーチとなります。


というか、かつての私はなっていました。
その頃は、本当にしんどかったです。
毎日毎日、
正しい、強い答えを求めて彷徨っていましたから。



「自分を許す」
というフレーズを使い始めたころは、


自分が不在なまま
他人軸と他人軸を戦わせる戦場だけは提供する、
そんな自分イジメをしていたのだ、
と思います。