連休の最中に、お別れがありました。

とても多くの人が参列されていた式だったから
家族はとても忙しく大変そうでした。

ゆっくり悲しむ暇も無い、というのは
正にこのことだなあ、と。

だけど、

温厚で面倒見のよかった故人が生きてきた結果、
これだけ多くの人に影響を与えていたのだ
と思うと、素直にその偉大さに胸打たれました。


互いに
見ず知らずの人も多いし、
あわただしいその式の中で、
新たにじっくり交流するなんてことはないから、
ナンセンスだと思う人もあるかもしれないけど、


その人たちを
一つの場所、一つの時間に集めてしまう
その故人の吸引力というか、エネルギーのすごさは
まぎれもない現実だなあ、と感じました。



お別れの式に出るたびに思うけど、


家族、親戚、知人、友人、仕事関係、ご近所、
晩年の仲間、長年の仲間、
みんなそれぞれの立場で、それぞれにその人のことを
自分の胸に紡いでいくのですよね。
誰一人、同じように受け止めてはいない。


そして、それは、
その人自身の今、を紡いでいるに過ぎないとも
感じます。

例えば、

自分が悲しいだけでなく、
悲しんでいる親戚を見て悲しむ人もいるし、
個人と年齢が近い場合は、
明日は我が身かと思いを新たにする人
もいるだろうし、
悲しんでいる暇もなさそうな人もいるし、、、


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ところで、


私は常々、
お葬式は生きている人のためにするもので
実際、私が死んだら、
生きている人の好きなようにしてくれたらいい、
と思ってきたのだけど、

今回は初めて、

故人のことを想って、
故人の喜ぶようにしてあげるっていうのも
いいなあと思ったのです。


もちろん、
それも含めて生きている人の自己満足なのだけど、


それでも、そういうのが、
きっとまだその辺をふわふわ
とんでいるだろう故人との
最後の共同作業のような気がしたのです。

初めは、忙しい中、憔悴している中、
大変そうにしか見えなった家族の姿が、
やりたくて家族で協力して、
故人の遺志に沿うような式を準備したんだなあ、と
思えてきたからです。


ああ、きっと、今この瞬間も、
心の中で故人としっかり手をつないでいるんだな
と感じられてきて、
途中からずっと涙がとまりませんでした。


もちろん、どんなに抵抗しても、
時間通りに粛々と式は進み、
時間通りにお骨になってしまうのだけど、


それを押し返して負けない想いのベクトル
のようなものを勝手に感じていました。


、、、


って、これが、

私自身の今の何かを紡いだ、
ってことなんだろうなって
書きながら今気づきました(^^)