ジャッジはなくならないモノだと思います。


なくさなければならない、とも思いません。


なぜなら、


何かを見て(入力)して
過去の経験や知識から分析(演算)して
判断したり、反応したり(出力)する


のが、生きるってことだと思うから。


そもそも、何かを見た時に、
無意識的に取捨選択したり、色をつけたり
している時点で、
もう、ジャッジは始まっている。


例えば、
目の前に存在したのが
置物のリンゴでも、
いい香りがした、と言い張る人もいれば、


物理的に接触して、つまずいたとしでも、
それがリンゴだったことすら
否定する人もいるわけで。。。


だから、みんな違うものを入力して、
違う反応をしているだけ、
なんだと思います。


それを正しい、正しくない、
と一つしかない椅子取りゲームをする時に
戦争になって、潰しあって
ジャッジなんかなければいい、と
悪者にされる。


でも、

自分が何かを
自分のフィルターで入力したから、
自分が何かを感じて、
自分という演算装置の結果、
反応やら行動やらをしたんだ、


って、ただそれだけなのなら、


それ自体が実際に起こったこととして、
動かせないものだとしたら、


戦ってそれを潰そうとすることは
相手の存在そのものを否定しているってことに
なるのだと思います。


それでも



もし、


〇〇と捉えるのが正しい。
〇〇と感じるのが正しい。
〇〇と判断するのが正しい。
〇〇と反応したり行動するのが正しい。

そうじゃなきゃおかしい。

ってのを、どこかで一つでも握りしめていると、
世界を断罪したくなる。


んで、お互い、


今まで生きてきて、
いろんな経験をして、
培って学習して出来上がってきた
かけがえのない色眼鏡なんだから、


バッサリ否定されて嬉しいわけがない。


相手が正しさをふりかざして切りつけてきたら
守りたくもなる。


========

だけど、
分かって欲しいのは正しさじゃなく、
自分の《想い》なんだ、


ってことに本気で気づいたら、


相手にも《想い》があるから暴れているんだな、



ってことになる。



それが相入れないように見えても、


自分の想いというものの存在を本気で認めたら
相手の想いもこの世に存在するんだ、
というスタート地点に立てる。


内容云々じゃなく。


だから、そこで初めて、
聞いてみなきゃわからんなら
聞いてみようとなる。


生きるためにしているジャッジは、
ある意味、その人そのものなんだから、


それを剣として傷つけ合うのではなく、


いったいどんな大切な想いや価値観、
過去の経験、知識、
から出来上がったのかを紐解きあって
知り合うきっかけにすればいいと思う。


ジャッジをなくすなんて、
有り得ないし、
勿体ないと思う。



だから、
人にどうしても分かって欲しいジャッジ
があって、
分かってもらえなくて苦しい時は、   


いったん目の前のチャンバラをやめて、



徹底的にそのジャッジに隠れた想いを
自分で分析して、自覚することで、
そっと横に置く。 
簡単じゃないけど、ちょっとずつ、ちょっとずつ。


そこから、
相手の話も聞いてみようか、と
思えたら、そこが始まりだ、と私は思う。



まあ、これも、私のジャッジだけど(^.^)