人のことなど分からない、とつくづく思う。

一緒に暮らしている、血を分けた子供ですら、
分からない。

いや、近いから余計に分からない。

いや、分からないくせに、分かったつもりに
ついついなってしまうから、
そういう意味で、
本当は分からない、があふれている。


他人なら、そりゃあもう、単純に分からない。


だけど、テキトーにジャッジして処理して
暮らしている。


それが現実。


本当のところは聞いてみないとわからない、
と思いながら、
その全てを聞く暇もなく、人生は過ぎていく。


だから、


こーいう時は大抵こうなのよ、
こーいう人は大抵こうなのよ、
という教えは、もういらない。


というか、
真に受ける体ではなくなった。


それを伝えてくれる人にとっての公式、法則
を教えてくれたとしても、
そこには、その人の経験値と固有の座標という
条件がついている、と身にしみたから。


何故なら、自分自身がそうだから(笑)


だから、他者の話なんていらん
というわけでもなくて、
それは、そういう条件の存在という事実と、
それを伝えたい人の意図、のたまものであり、


それは、この世にあるものだから。


そんなものをお互い交換しあいながら、
へーへー、と愛で合いながら生きるために
お互いは存在するんだと最近は勝手に感じている。


そういう意味ではいろいろ聞いてみたいし、
自分の視点、座標からは見れないアングルの
この世界をもっと知りたい。


そして、何よりまだ、他者のこと同様、
自分のことを自分は知らない、
と驚くばかりだし
日々変容していく自分をスケッチするのに
正直忙しい。


だけどそうすることで、ニュートラルに近づける。
色眼鏡が落ちていく。
もちろん完全にニュートラルになんか
絶対なれないけど。


でも、ニュートラルに近づけると、
不意に出会った誰かの世界や、話を
思い込みで決め付けて解釈を誤る、
なんて機会が減る。


人の言葉が、自分のフィルターを外して
別の意味をもって聞こえてくる時の驚きと喜び!


それが正しい、というんじゃなく、
それが何より自分を楽にする循環となる。


そして、また冒頭の言葉に戻る(笑)