AIが人間の会話の相手をしたり、 
目線を読み取ったり癒してくれるロボットになって
日常に入ってきているそうです。


高齢者施設では、既にどんどん導入されていて、
もしかしたらこの点に関しては、
親世代の方が先に進んでしまうのかもしれない
という不思議なところまできているようです。

つまり、介護に関して言うなら、
きっと私の時代は、かなりAIの入った世界に
なってるだろうから、正直、人ごとではない。

で、先日Eテレで、 
AIを愛せるか、という話をしていたのが
とても興味深かったので、少し引用します。

女性の脚本家さんは、

生き物じゃない、心を持たないものに、
これだけ心を動かされたり頼ったりして
それは正しいことなのか(疑問に思う)」

と言っていました。

AIが悩み相談をしてくれるという話題についても、

「言葉を集積して解析して出されたもの(=AI)
で悩みがなくなることがちょっと腑に落ちない。
誰かが考えて、そこにいてほしい
ていう気持ちがある。
そっちが正しいんではないか(と思う)。」

ということでした。


「正しい」という言葉が多用されていることが
気になりつつ、
その内容にもどうにも違和感がありました。
この辺りのことは、いずれまたどこかで。


それに対して、チュートリアルの徳井さんは、

「作り物を愛するということは、
多分結構人間って
もっともっと前からやっている。
車を生き物みたいに愛することはある。
そんな不思議じゃない。」

と言われました。
こちらの感覚については、
私もその通りだなあ、と感じました。

んで、咄嗟に思い出したのは、
このブログを書き始めた5年前の第2番目の記事。

仏像って     


正直、この記事に書いた、
仏像に抱いた感覚の方が、
AIに癒される感覚より、
ずっと不思議なことだという気がします。


だけど、不思議なのに、
古今東西、どこにだってある話だと思います。


思うに、
そこには
人間ならではの感情移入という仕組みがある。


人は、自分のフィルターで、
その塊である仏像をありがたいと思うからこそ、
黙っているその仏像に救われる気がする。
後ろめたいことがあるなら、鬼のお面をみたら
責められていると思うこともある。


ただし、これらの場合、
どちらも、起点は自分です。


自分のフィルターがまずあって、
そのものを、
ありがたいものとか怖いものとか感じることで、


あたかも、そのもののせいで、
体調がいいとか、気分が悪いとか
言い出すわけです。


でも、AIはどうでしょう。


こちらの日常の会話、行動パターン、しぐさ、
目線の送り方などなどを分析して、
向こうから発信してきます。


んで、


「心地いい」とか「すこやか」とか
表現される感覚に近づけてくれる、と。



それが、相手発信で、隙間なくされた場合、
自分のペースってのは
どうなっちゃうんでしょうかね?


なんて私は心配になってきました。


失敗したり、イヤな気持ちを自覚したり、
そういうのから得ることや、創意工夫や
出会い、なんかは、どうなっちゃうのかしら?


それとも、今はほっといてほしい、
という感覚も察して
うまくやってくれるのかしら????


うーん、
そうなると、
もしかして、
ロボットに惚れてしまうのでしょうか(笑)


なんて言っている私は、
冒頭の女性の脚本家の言っている戸惑い、も
少しわかる気がしてくるのです。



ただわたしの場合は、
相手が人間じゃないかどうかじゃなく、
私のペースを乱すかどうか、が問題です。


この「私のペース」って何気なく書きましたが、
結構大きな問題でもあるような気がしてきました。


それについては、また別の記事で。
きっと(笑)