あの頃を乗り越えたから今があるんじゃん、
とか、

△△なとこもあるけど◯◯だから、まだマシ
とか、


よりよく生きよう
とか、   


次頑張ればいいじゃない。
とか、


聞くたびに違和感がある。


これは全てジャッジだし、
それにもれなく付いてくる
ポジティブってやつだから。


例えば、


あの頃を乗り越えたから今があるんだ。


となぐさめられた場合、
本人は、
それで全部チャラかよ、と思うかもしれないし、
ザクッとあの頃の自分全体をディすられた気に
なるかも知れない。


あの頃だって、いろんな側面があるはずだ。
何か大切なことのために、
他人からすれば愚かに見える道を選択した
だけかもしれない。
その時見えていた視界の中では、
それが最高の選択だったんだろうし。
どんなに前に進んでいないように見えても
生命体としてエネルギーを燃やしていたんだから。


細かく細かくみていけば、
大切なものが必ず転がっている。
他人様になぐさめられるのに釣られて
自分でもザクッとジャッジしてディすっている場合
じゃない。


たしかに、その時の自分は、もしかしたら
売り言葉買い言葉なんかして、
人を傷つけ、返り血を浴び
自分の首をしめていたのかもしれない。


だけど、その自分の首をしめるエネルギーは
そもそも何処から来たのか?


何かを守りたかったんじゃないのか?
何かを言いたかったんじゃないのか?


それがどんな
ちっぽけな、くだらないものあっても、、、、


というの自体、既にジャッジだと思う。


ちっぽけや、くだらない、
というのは、一体誰が決めたのだろうか?
何を鵜呑みにしているのだろうか?


その〝小さな〝ことのために、
とてつもなく振り回されて
自分の首をしめるエネルギーを隠しきれないなら、
それをそろそろみていかなきゃならない。



ジャッジはどこまでも追いかけてくる。
ジャッジしている自分をジャッジすらする。
ジャッジした瞬間に、観察をやめて蓋をしてしまう。


自分の命は確かにそこで燃えていたのに、
いなかったといっているかのように。


どこにも、いつでも
ぎっしり自分は詰まっている。


それを人様や自分が、
いろんな方向から光を当ててみては
ジャッジして、より良くすべし、


と言う前に、


フラットに並べていくこと、


その先にやっと借り物じゃないものが
見えてくる、と思う。