視点を変えていく。


昔からこれをやっていたなと
はっきり覚えているのは、


自分がどうやら変わったやつだ、
と思われていると自覚したころからかな。


それまでは、天然で生きていたけど、
変わっている自分が
集団に混ざって存在していても
いいのだろうか?、と心配しだしたのです。


井戸端会議でも、
女子中学生のキャピキャピした話でも、
どうも、自分は違うものの見方を 
して、そこに立っている。


というか、みんながウケているところで、
盛り上がっていない。
違う視点から別の思考をしていたりする。


輪に入らないといけない、
という焦燥感もなかったから、
逃げ出したいわけでもなく、


その場にそのままいるんだけど、
だからこそ、そういう場にたくさん
居合わせてしまう^^;


で、自分は
空気の流れに沿ってふんわりしていないな、
とさすがに気付く。


人から、時々
冷静でサッパリしている、とか
ブレない、とか言われたけど、
それは精一杯の肯定表現だったのかも
しれないな。


そこにいるけど、ただ突っ立っている人に
なんて言っていいか分からないもの。。


そんな自分を外から見た時に、
異物感、という言葉が浮かんだのです。


まあ、とにかく、大人になってからも
新しい集団に入っていくのは、
相変わらず平気だったけど、


もっと普通に話さなきゃ、
とザワザワすることも増えていった。


だんだんいたたまれなくなってきた時に、
今度は、意識的に視点を変えて、
外から集団の中にいる自分を
眺めて見たのです。


そしたら、今度は、


あー、集団の中には必ずそんな人もいるよね。


というのが出てきた^ ^


みんながみんな同じテンションでいる
なんてことはまずない。


今話題のプロ野球球団の人事の話だって
ファンと呼ばれる人のテンションも
実に様々。
怒っている人も、歓迎している人も
たいして心動かない人もいる。


そう考えると、私も、やっぱり
世界の一部なんやな、と
視点を変えることでシミジミ思った。


そうは言っても、この

ここにいていいのだろうか、


は、クセのようなものでもあるので、


自分は今、崖の端を歩いているのか
道の真ん中を歩いているのか、
ふと不安になることもなくはない。


思うに、視点を変えるは、
頭で理解したという側面があるから、
身体のクセや、恐怖の形状記憶は
完全解消はしないのかもしれない。
時間をかけてゼロになることもあるかな?


まあ、でも、
それは、それでいい、と私は思います。
コンピュータのデータ消去のようにいかないからこそ
生きた実感もあると言うものだから。


だからこそ、自分を書くのだと思う。
書いてブログにあげることで、
世界の一部であることが体感できるから。


喜びであり、楽しみでもあるけど
恐怖を超える修行?
みたいなところもあるのです(^^)

=======

話戻って、
視点を変える、についていうならば
これは、確実に父からもらったものです。


父はいつも突拍子も無いことを言っては、
母の叱責にかき消されていました。


だから、私には、
あまり内容までは届いていなかったけど、
その〝緩み〝の感覚
はしっかり届いていました。


多分父は研究者だから、
常に新しい視点を
必要としていたのかもしれない。


そうでないと、
自分の論文を書く意味がないし、
研究者としては、生命線かも知れない。


それと、父自身の好奇心もあると思う。


先日親戚で話している時、


「お父さんは、時々、変なこと思いつくねん。
   好奇心で、いろんなこと考えて、
    ふと浮かんでしまうから」


と言っていました。

若干自虐的な物言いなのは、
その時も、いつものように、
親戚の話の流れから逸れた斜め方向の話を
突っ込んできたあとだったから(笑)


父も自覚はあるんだと思いマス。


というわけで、


あー、父も私と似ているな、
いや、私が父と似ているんだな、


と今書きながら気づきました^_^