こうげきされたら、
自分を守ろうとするのは自然な反応だと思う。

誰だって傷つきたくない。

  
ここで、思うこと一つ。


相手にそんなつもりがなくても
間違って踏まれた足だって傷むってこと。


相手に悪意があってもなくても
折れた骨は痛む。


折れた骨のせいで、
歩きまわれないで不自由な時間を過ごしたら
イラつくだろう。


それは私の範疇だ。


相手に悪意があれば、
何十倍もムカつくのはムカつくけれど、


悪意がなくても、
困るものは困るだろう、というハナシ。


ここまでは私
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そこからは相手


なのだから。


だから、



「わざとやったんじゃないって、
◯◯さんも言っているんだから、
ガタガタ言わずに我慢しな」


と言われたり、
誰かが言われるのを聞くと
変だろ〜って


いつも思う。


私は傷ついたのだ。
欲求の実現を妨げられたのだ。
それは事実だ。


痛みは信号だ。
自分の中での自分へのメッセージだ。


それを感じ切ることすら
出来ないのだろうか?


責めたいんじゃない。


ここまでは私
==========
そこからは相手


というだけのことだ。


痛いから、痛いということを
辛いから、辛いということを

その場で自分が感じ切らなければ、
その負のエネルギー?は
何処かへ持ち越され、
それこそ次は何倍にもなって、
もしくは醜悪な形になって
相手へ、もしくは無関係の誰かへ
持ち込まれてしまうんじゃなかろうか。


そうなると、
事はイタズラにややこしくなるだろう。


「踏んだあなたが心配してくれるから
私の足は痛みません」


じゃなく、


私が痛みを感じ切る時間と空間を
くれれば、
私の痛みはしっかり経験されて過ぎて行く。


という世界。


前者が大人の世界なら
後者は子供の世界と言われるかも知れない。


だけど、大人の世界は、
分かりにくくて、
結局は誰かに何かをこっそり押し付けてしまう
世界なんじゃないのかな。


ついでに言うと、
「こんなことで傷つくなんておかしいよ」
とあなたが思うかどうかも、
わたしが傷つくかどうかに何ら関係ない。


やっぱり、


ここまでは私
==========
そこからは相手


だから。