何食べる?

      なんでもいい。

じゃあ、イタリアンは?

     うーむ、イタリアンはなんかイヤだ。




このくだり、
なんでもいい、と言った人が
悪いとされることが多いし、


今は、意思表示ができる人を
礼賛する傾向があるから
(本音ではどうか知らないが、
少なくとも建前は)


実際は、イタリアンに無理やり引っ張って
行かれる可能性も多々あると思うんだけど


こういう現象をそないに目の敵にせんでも
いいんじゃない?
という気がしてきました。


確かに「なんでもいい」
というのは嘘で、
自分というものはどこかにあるんだから、
そういう返答は
真に受けた人を混乱させるのだけど、


冷静に見つめてみれば、


「イタリアンは?」と聞かれて初めて
イタリアンが口に入った時の想像をして
身体がイヤだと言った、
というだけのことなんではないかしら。


つまり、


自分で自分の反応を確かめるまで、
自分のことなんて分からない。


という当たり前のことなんだと思います。



もちろん、
積極的に和食や中華やタイ料理を
口に含んだ時の想像をして答えるのが
誠実というものだけど、
普段からそこまで、あらゆることを
準備しているわけじゃないでしょ?



昨日は食べたかった中華が、
今日は胃もたれで食べたくないかも
しれないし、


何にも食べたくない気分で
身体を休めて油断している時間に
いろんな想像することすら億劫だ
ってこともあるでしょう。


突然アサッテの方向から、
「これ、いいでしょう?答えてよ」
と言われても、
モードに入れないこともあります。


ただ、それだけのこと。


誰にでも、いろんな場面であること。


今この瞬間イタリアンを食べたい君と
できれば昼はおかゆですませたい
胃もたれの私が同じ部屋にいてもいいわけで、


いつでも瞬時に白黒つけなきゃ
存在してはいけないなんて法はないんです。


曖昧には曖昧の意味もありますって(^^)


私も今でこそ、


自分はあれは嫌い、これは好き、
こういう時はこんな傾向があって、
例外的にこんな反応もありうる私です。


なーんて、
自分を明確にしておくことの
楽チンさを気に入ってはいますが、


それだって、
自分の興味あることばかりを
掘り下げているのであって、


なぜ三度の飯にそんなに興味がないのだ、
と詰め寄られると困るわけです。
実際興味は薄い方かもしれない^^;


自分の周りに波風たたないと、
本来自分のことは分からないものだし、


自分の未来の反応を想像して確認するのは
それなりに、エネルギーはいるのです。


というわけで、


分からないまま君がそこにいても
僕はいいよってのが、
究極の存在しあう関係だとも思うので、


相手が「なんでもいいよ」って言いつつ
「イタリアンはイヤだ」などと言ったら、


自分が明確になる時間くらいは
待ってあげたいな、と思ったのでした(笑)






自分にもねー。
ゆるやかに、存在しあえる場が好き。