双子がよくケンカする。

相手が持っているものがほしい
相手が持っているという理由だけで
急に欲しくなる。

相手に出来て、自分に出来ないことに
とても敏感。

差異を万倍に拡大してお互いとらえる。
相対性の目印がいつも家の中にいる日常。


対して、私は間逆の子供時代。
年の離れた兄姉と違う次元で暮らしていた。


夕食のハンバーグも
一番大きいのは兄に置いておき、
2番目に大きいのをわざわざ見つけて
食べていたからケンカなし。


これって、ひねくれてる?
とか子供らしくない?とか
と考えてみたこともあるのだが、


とどのつまりが、
別に兄に大きいのを食べられたことで
私のハンバーグが
余計に小さく見えたりしなかったんだと思う。


目の前のハンバーグに集中できる。


たかだか数十グラムのひき肉量の差異を、
実際に感じながら
ハンバーグは食べられない。


んでも、私を視界に入れている兄からは
なんかの拍子に
「お前だけずるい」と 言われたりも
ちょいちょいするわけで、


私は言われる度に
何がずるかったのか、見当がつかず
言われるままポカンとしていました。
腹いせに蹴られたりすると、
泣いてたけど、それは痛くて泣くだけ。



ただ己の道しか見えず、黙々歩いていて、
突然、
『君の道だけ芝生が生えているのはズルイ』

と言われても、ヘェ〜そうなんだ、
ってなるだけでした。


そもそも同じ土俵ってのが、幻想だ、
と今は確信して言えるんだけど、
それも、子供の頃は表現できなかった。



スポーツとかゲームとかは
同じ土俵だっていう了解でするから闘える、
  

だけどそれは、現実世界では幻想。


ちょうど、空気抵抗や風向きなんかを無視した
物理の問題が非現実なのと同じ。



肉体を持って
不平等に、不公平に
生まれついたことが、


正に今ここにある事であって、


完璧だの、理想だの、あるべき姿だの
普通だの、平均だのは
頭の中にしか実際はないもの。


昔、養老孟司さんの本で、


解剖学の教科書の通りの死体なんてなくて、
実際は、教科書の通りの場所には
毛細血管なんか通ってなくて、


それは、教科書が正しいんじゃなくて、
目の前のひとつひとつの死体が正しい
ってことだよ、って 


読んだ記憶が蘇りました。


今になって、さらにしみる気がする。

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