昨日は7か月ぶりの坐禅会でした | 再開  オネオネ日記

再開  オネオネ日記

ぐるっと一周回って、元に戻っての再会です。タイトルも変更しました。いろんなことがあって、中断していました。やっと落ち着いたのでまたはじめようとしています。

ほぼ、7か月ぶりでしょうか、自敬寺さんの坐禅会にいってきました。

お天気も良く、さわやかな日だったので、大阪メトロ御堂筋線東三国から気持ちよく歩いていきました。

帰りもすがすがしくかえってきました。

 

いただいたテキストはすでに十一号になっています。

私も持っているのは四号までです。

 

「永嘉真覚大師 証道歌」(ようかしんかくだいし しょうどうか)です。

永嘉真覚大師は、永嘉玄覚のことで、唐代の禅僧、六祖慧(恵)能の弟子。

証道歌は短い詩の形にした禅の要諦をしるしたもの。

 

これを読みました。

 

その一つ

 

「六代の伝衣天下(でんえてんか)に聞こゆ

道を得る後の人 その数を窮めん。

真も立せず妄も本空なり、有無俱(とも)に遺()れば不空も空。

二十の空門 元著(もとじゃく)せず、 一性如来の体自ら同じ。

心は是れ根、法は是れ塵、両種なほ鏡上の痕の如し

痕垢尽(こんくことごとく)く除いて光り始めて現ず、

心法ならび亡じて性即ち真なり」

 

意訳

「恵能大師の名は天下に聞こえ 得道者は数知れない

その教えは真理を前面に出すことも無い

妄想は元々存在しないのだ 有無の区別も 空も空で無いも捨て去るというものだ

空の解釈は二十あるというが 真の自己に目覚めれ

ばそれは如来の本体と同じなのだ

心は六根(眼耳鼻舌身意)の感覚器官

法は塵垢(ちりあか)(六根の対象物)両方共に鏡の痕の如し

鏡の傷痕が消え去った後に 鏡は光始めて現れる

心とその対象が共に消え去って無くなった時

君の本性はそのまま真実なのだ

 

普通、六根の対象物は六境というのだけれど、ここでは、それは塵垢だというので「法は是れ塵」といったのかもしれない。心と法をならべたからなのかもしれない。

「ろっこんしょうじょう、と言うでしょう」というと、「しょうじょう」とは何ですか? と尋ねる人があった。

笑っちゃいけないが、ふふふと笑う。

清浄のことだ。六根を清めけがれの無いようにすることだ。煩悩や欲望を断ち切って心身を清らかにすることだ。

 

白山拝登のおり、「懺悔、懺悔、六根清浄」と歌いながら登るのを知らんかなぁ?