四弘誓願への一つの私解(ややこしいので苦手な人はスルーして) | 再開  オネオネ日記

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ぐるっと一周回って、元に戻っての再会です。タイトルも変更しました。いろんなことがあって、中断していました。やっと落ち着いたのでまたはじめようとしています。

四弘誓願は菩薩が目指すべき誓願、つまり誓いのことを指している。

菩薩だから大乗仏教の誓願であって、自分だけではなく、衆生も救われないと涅槃には至らないという誓いのことだ。

 

それは以下の四文である。

 

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんどう)

煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

を指している。

 

どこかの宗派に属しているとか、信者でもない勝手大乗なので、勝手に解釈しているんだけれど、どうもどれをとっても不可能だよね、と思ってしまう。

 

例えば、Wikiによれば

・地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願

・煩悩は無尽だが、すべて断つという誓願

・法門は無尽だが、すべてを知る(ここでは学→知を採用しているので)という誓願

・仏道は無上だが、かならず成仏(死ぬという意味ではなく、悟りに至るということ)するという誓願

 

を指しているという。とても不可能な話だ。

 

原典は天台智顗の『魔訶止観』10下であるというので、最後の巻末にあるということだ。

毎日となえていて、誓願というのを「誓う」という意味にとればそのまま、願いになる。

上三つは出来ないにしても願うというので、問題はないが、いつも引っかかるのが、最後の誓願なのだ。

 

「仏道は無上だが、かならず成仏することを願う」という「無上」は意味的には「最上である、この上ないこと」の意味だから、最上の悟りを願うという意味になるのではないか。事実、『魔訶止観』の岩波文庫本では(関口真大校注)「無上仏道誓願成」となっている。

 

仏教学的にはすでにいろいろ議論されてきたのであろうが、それの一つ一つには関心はなくて、現在の誓いの時の「唱えるときの事態」としてどうだろうかということだ。それも私にとって、ということだ。私は先のWikiの解釈的に、仏道は無上(ここでは上は〈ない〉と解釈して、逆にさらに上があると解釈していた)だが、成仏することを願う、としていた。一度悟ってもそれで終わりではなくさらに上があるという道元の「仏向上事」を想定していたのだ。

 

しかし、この二つは日本語的にニアンスが違うので、慣習的な語順からいうと、仏道無上では「仏道は上はない」、となってしまい、限りがないという意味になってしまいはしないか。無上仏道なら「最高の仏道」の意味でこの上ない仏道を願うという意味になってしまいはしないということだ。

 

同じこっちゃない、と言ってしまえば、そうかもしれないのだが、いつも引っかかってしまう。

 

私的には、道元的に悟りといってもまだまだ先があるよ、というように理解したいのだ。

 

はて、どちらなんざんしょかね。